中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」フィールド・ワーク「ヘボン博士山手245番旧宅跡」、「聖書和訳の碑(横浜共立学園構内)」などの実施 (ヘボン塾講座有志の会)

10月24日(土)のフィールド・ワーク「ヘボン博士記念碑」清掃奉仕終了後に、中島耕二先生と岡部一興先生(『ヘボン在日書簡全集』の編著者)のご指導のもと、山手地区でフィールド・ワークを体験しました。両先生の熱の籠ったご説明によりゼミ生7名が授けていただきました内容を下記のとおりご報告します。なお、途中まで津田一路先生(元白金高校およびテネシー明治学院高等部校長)も加わっていただきました。

まず、「ヘボン博士山手245番旧宅跡」を訪ねました。ヘボン夫妻は同地に1876(明治9)3月から1881(明治14)年4月まで、および1883(明治16)年5月から1892(明治25)年10月までの通算で約14年間居住されました。この地で同博士は旧約聖書翻訳社中の委員長としてその完訳まで務め、更には明治学院総理・教授として高齢にも拘らず白金に通勤され、その姿を想い浮かべると頭が下がりました。 現在、この地には日本銀行の家族寮が建っていますが閉鎖状態でした。門の脇には 同博士を顕彰した記念碑が残っていたので安心しましたが、今後その保存が課題であることを認識しました。

写真:門の脇の「ヘボン博士を顕彰した記念碑」の前で
写真:門の脇の「ヘボン博士を顕彰した記念碑」の前で




その後、ヘボン博士の「息子サムエル238番旧宅」付近を訪ねました。サムエルは、ウォルシ・ホール商会、日本郵船横浜支店およびスタンダードオイル横浜支店主任として、同地に1875(明治8)年3月から1896(明治29)年まで住まわれました。同博士邸とは近い距離に位置し、お互いにどのくらいの頻度で行き来したか新たに興味を抱きました。

次に、いわゆる「外交官の家」に入館しました。同建物は、1910(明治43)年に明治政府の外交官・内田定槌邸として、アメリカ人建築家J.M.ガーディナーの設計により現在の東京都渋谷区南平台に建てられたもので、1997(平成9)年に山手イタリア山庭園に移築され、同時に国の重要文化財に指定されたものです。内田定槌は、日露戦争当時ニューヨーク総領事を務め、ヘボン博士とも親しく接触した外交官であることを中島先生から新たに教えていただきました。

当初見学を計画していた横浜共立学園構内にある聖書和訳の碑「新約聖書和譯記念之地」は、当日、同学園の行事と重なり入構できないため、概観だけの見学に変更 したところ、岡部先生のお力添えで入構が可能になり、念願の聖書和訳の碑を見学することができました。このブロンズの版は、米国聖書協会により1931(明治6)年に新約聖書和訳完成50年を記念してブラウン博士邸跡に建てられたものです。なお、この地は同博士の「ブラウン塾」があったところでもあり、後に明治学院総理となった井深梶之助や青山学院院長の本多庸一、富士見町教会牧師の植村正久など、多くの有為な人材が学ばれました。同博士の偉大さを改めて痛感しました。

これでフィールド・ワークが終了と思ったところ、岡部先生から下岡蓮杖夫人美津の墓が地蔵坂に面した蓮光寺にあることを教えていただき訪ねました。下岡は日本初の写真館を開いた写真界の開祖の一人で、J.H.バラから受洗したクリスチャンでした。墓石は十字架を模した形をしていたので、夫人もまたキリスト教徒であったのではないかと想像を巡らしました。ちなみに下岡蓮杖の墓は都立染井霊園にあり、かつてゼミのフィールド・ワークで墓参を行いました。

なお、当日はJ.H.バラ夫人など明治学院ゆかりの多数の人々が眠っている「山手外国人墓地」で墓参をする予定でしたが、時間がタイトのため次の機会に譲ることにしました。 このように当日は中身の濃いフィールド・ワークを体験でき、両先生への感謝を胸になお一層勉学に励まなければならぬとゼミ生一同は心に誓いました。(世話人:海瀬春雄)