中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」中島耕二編『タムソン書簡集』出版記念会に参加 (ヘボン塾講座有志の会)

当ゼミは、元本学客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、2012年4月に活動を開始し、10年2か月が経過しました。
その間、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士、横浜の女性宣教師たち、J.H.バラ博士、T.T.アレキサンダー博士の各書簡集や伝記類の輪読、フィールド・ワークの適宜な実施、朗読劇の上演、並びにキリスト教史学会大会、外国人居留地研究会全国大会など各研究会に随時参加しながら学習活動を続けてきました。
2020年3月以降はコロナ禍のため休講を余儀なくされていますが、その代替として現在は、eメールによる「ゼミ通信」を寄稿し合いながら、中島先生及びゼミ生間のコミュニケ―ションを図りつつ、コロナ禍収束後の活動に備えています。

この度は、「横浜プロテスタント史研究会2022年6月例会(第433回)」において、中島耕二編『タムソン書簡集』出版記念会(講演)が開催され、ゼミ生10名(うち4名はオンライン(Zoom))が参加したので報告させていただきます。

日 時:2022年6月18日(土)14時00分 ~ 16時00分
場 所:日本基督教団 横浜指路教会 会堂
開催方法:対面とオンライン(Zoom)
題  :「タムソン宣教師と日本の近代化」
講 師:中島耕二先生(横浜プロテスタント史研究会世話人、フェリス女学院歴史資料館研究員、元明治学院大学客員教授、東北大学博士(文学))
参加者:会堂での出席者26名、オンライン(Zoom)参加者24名、計50名

中島先生はパワーポイントにより、配布資料「タムソン年譜(中島耕二編集)」も参考にしながら詳細に説明をされましたが、ここでは抜粋し主な内容をご報告いたします。
なお、発表後多くの質疑応答がありましたが省略します。

(はじめに)
1.書籍の案内
中島耕二編『タムソン書簡集』(教文館、2022年3月30日、四六判 394頁、定価(本体5,800円+税))
2.『タムソン書簡集』出版の経緯
本書の編集作業は、新栄教会創立140周年(2013年)の翌年5月から書簡集編集委員会委員、書簡集実務会委員、翻訳クループカ ルテットを構成・担当のうえ開始し、書簡の収集・コピー・翻訳・各書簡の内容の見出し作成、詳細な注、目次・年譜およびタ ムソン師や家族写真の使用許可申請など編集作業を進めた。
5年目以降(2018年~)は出席者の体調管理などから、また特に 2020年春から新型コロナウイルスのパンデミックで不要不急の集会自粛環境の中、検証、検索作業が滞りがちになったが、2022 年3月30日に刊行できた。
しかし、出版数日後に新栄教会牧師 本間敏雄氏が召天されましたが、大切な本書をお届けできたことはせめてもの慰めであっ た。
3.タムソンとは
D.タムソン師(博士)(以下、「タムソン」あるいは「デビッド」と言う。)(1835-1915)は、アメリカ長老教会海外伝道局か ら派遣された宣教師である。
幕末の1863年5月に来日し、52年の長きに亘る働きののち日本で生涯を閉じた。
その過程で伝道と日 本の近代化に大きく寄与した。
しかし、J.C.ヘボン博士(以下、「ヘボン」と言う。)、S.R.ブラウン博士(以下、「ブラウン」と言う。)、G.F.フルベッキ 博士(以下、「フルベッキ」と言う。)に比べて世に知られていない。その原因は「語り部」がいなかったからである。

4.本日の報告「タムソン宣教師と日本の近代化」
(本論)
1.生誕から来日
1-1. 先祖
祖父はアメリカ合衆国オハイオ州ハリソン郡の郡長、父デビッドは大規模農場経営者。
母サラ・リーは著名な長老教会牧師ジョン・リーの娘。
1-2.生い立ち
1835年9月21日 オハイオ州ハリソン郡アーチャー(Archer,Harrison Count)で三人兄弟の二男として生まれる。
1-3. ウェスタン神学校
 1859年(24歳)オハイオ州ニューアセンズ(New Athens)のフランクリン大学を卒業し、ペンシルベニア州アレゲニー (Allegheny)のウェスタン神学校(現ピッツバーグ神学校)に入学。
1862年(27歳)6月 同神学校卒業。ウエスト・バージニア州の長老教会牧師に就任。
同年海外伝道局に宣教師志願し日本派遣が決まる。
同年11月30日 単身ニューヨーク港を出航。喜望峰経由で上海へ向かう。

2.来日から東京基督公会設立まで
2-1. 第一次横浜時代
1863(文久3)年(28歳)5月18日 神奈川沖到着。
1864(元治元)年(29歳)7月 横浜英学所教師として積分・代数を担当。
1869(明治2)年(34歳)2月 小川義綏(以下、「小川」と言う。)、鈴木鉀次郎および鳥屋だい、の3人に授洗する。
2-2. 上京
1869(明治2)年(34歳)12月 小川夫妻を伴い上京。
築地雑居地入船町に居住。

2-3. 第一次東京時代
1871(明治4)年(36歳)2月 和歌山藩に招待され、小川を伴い10日間滞在。
同藩大参事津田出(又太郎)等に西洋の国政、英米の憲法、宗教等の講義を行う。
同藩に配流中の長崎浦上キリシタン(287人)の苛酷な状況を知る。
帰京後、横浜の英文紙 に配流キリシタン釈放について投稿する。
同年6月17日 ヘボン、C.カロザース(以下、「カロザース」と言う。)およびタムソンの連名で信教の自由に関し、アメリカ政府を通じて日本政府に要求すべしとのアピールをアメリカ長老教会海外伝道局に送付。
同年6月23日 太政官派遣十三大藩海外使節団の通訳兼コンダクターとして横浜出発。
万国福音同盟日本支部を代表し、各国福音同盟会を訪問、日本における信教の自由促進の協力を訴える。
この働きが半年後に米欧を訪問した岩倉使節団への欧州各国 からの圧力となり、切支丹禁制の高札撤去の大きな要因となる。
2-4. 第二次横浜時代
1872(明治5)年(37歳)7月10日 アメリカから横浜に戻る。
病気のJ.H.バラ(以下、「バラ」と言う。)を助けしばらく横浜公会を指導。
同年9月20日~25日 横浜居留地39番ヘボン邸において第一回在日宣教師会議が開催され、聖書の共同訳、超教派主義教会の形成を採択。
2-5. 第二次東京時代
1873(明治6)年(38歳)2月24日 切支丹禁制の高札、撤去される。
同年4月27日 メアリー,C,パーク(以下、「メアリー・パーク」あるいは「メアリー」と言う。)(1841―1927)、初めてのアメリカ長老教会独身女性宣教師(ニューヨーク婦人伝道局派遣)として来日。
同年9月20日 日本基督東京公会(新栄橋教会、新栄教会)創立、仮牧師に就任。
築地居留地17番B号の東京ユニオン・チャーチを借りて礼拝を開始。
フルベッキ日曜学校教師として応援する。
同年12月30日 在日アメリカ長老教会ミッション、中会組織の日本長老公会を設立。
ヘボン、カロザース、H,ルーミス(以下、「ルーミス」と言う。)、E,R,ミラーおよびO,M,グリーンが参加。
タムソンは小会のない中会設立は、本国長老教会規則に 違反していると訴えて不参加。
1874 (明治7)(39歳)1月 メアリー・パークとケイト,M,ヤングマン(以下、ヤングマン」と言う。)が築地居留地六番 B棟で寄宿女学校(女子学院の前身校の一つ)を始める。
同年5月12日 メアリー・パークと結婚。
同年12月8日 タムソン雇人小川に対し東京裁判所から出頭命令書がアメリカ公使館経由届く。
横浜公会信徒伊藤庭竹の葬儀を キリスト教式に行ったことで奥野昌綱(以下、「奥野」と言う。)と小川の二人が起訴され裁判となる。
葬儀、埋葬の自由を 求め裁判所と戦う。
同年12月31日 タムソンの駐日アメリカ公使館通訳官の任命書が届く。
自給宣教師となる。
1875(明治8)年(40歳)1月3日 新島襄、タムソンの求めにより東京公会で説教行う。
同年3月10日 東京公会信徒8名(安川亨、戸田忠厚(以下、「戸田」と言う。)を含む)が、東京第一長老教会に転籍する。
新島襄が東京公会で超教派主義批判の話をした影響による。
同年6月19日 築地雑居地南小田原町三丁目、新栄橋袂に新礼拝堂建設、献堂式行う。
教会名を「新栄橋教会」とする。
ブラ ウン、バラ、フルベッキ(以上改革教会)およびルーミス(長老教会)出席。
1877(明治10)年(42歳)9月17日 日本基督一致教会創立。
アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革教会、スコットランド一致長老教会の在日ミッションおよび日本基督公会と日本長老公会の合同教会決定。
同年10月3日 日本基督一致教会第一回中会(於:横浜海岸教会)開催。
議長を務める。
奥野、小川、戸田の三人が按手礼受領する。
同年10月7日 築地居留地6番小会堂に東京一致神学校(明治学院神学部前身校)開校。
講師に就任し旧約聖書釈義を担当。

3.直接伝道指導・支援
1882(明治15)年(47歳)11月8日~12月7日 関東北部へ小川、聖書販売人3人を引き連れて長期伝道。
1884(明治17)年(49歳)日本基督一致教会の高知伝道に加わる。高知の初穂となった廣井寅に授洗。
1885(明治18)年(50歳)日本昔噺シリーズ本『桃太郎』、『花咲爺』、『かちかち山』など日本昔噺の6話を英訳。
タムソ ンが洗礼を授けた長谷川武次郎が出版。
1886(明治19)年(51歳)8月 ウースター大学から神学博士号の学位を受ける。
1887(明治20)年(53歳)10月22日 二女マミーがジフテリアに罹り死去する。
享年9歳8ヶ月。
東京染井霊園外人墓地(東京都豊島区駒込5丁目)に埋葬。
1899(明治32)年(65歳)5月 夫妻で石川県金沢地方伝道。
金沢教会、金沢女学校(現北陸学院)で講演。
同年 長女ルース、ウースター大学を卒業し来日。
女子学院教師となる。
のち津田塾で教える。
1900(明治33)年(66歳)角筈衛生園理事を務める。
1901(明治34)年(67歳)三女グレース、ウースター大学を卒業し来日。
女子学院教師となる。
 1915(大正4)年(79歳)5月23日 レバノン教会(旧角筈講義所、現高井戸教 会)聖日礼拝説教「信仰生活」のあと体調を崩す。

(むすび)
1915(大正4)年10月29日午後6時30分に召天された。享年80歳であった。
同年11月1日午後1時から宣教師生命をかけて創立した築地新栄教会で葬儀が執行された。
二女マミーの眠る染井霊園外人墓地に埋葬される。
1927(昭和2)年5月17日 妻メアリーが召天された。
享年86歳であった。
夫デビッド、二女マミーと共に染井霊園外人墓地に 埋葬される。

タムソンは、日本における信教の自由促進を訴え、切支丹禁制の高札撤去や葬儀、埋葬の自由に尽力した。
また、日本基督東京公会(現新栄教会)など多くの教会を創立し、日本人牧師を育て多くの教会を誕生させた。
併せて、妻はヤングマンと共に築地居留地六番B棟で寄宿女学校(通称B六番女学校)を開き、長女、三女には女子学院教師に就かせるなど教育面にも力を注いだ。
このようにタムソンは、生涯家族共々日本の近代化に大きく寄与された。
このことを多くの人に知っていただき学ばれることを期待します。

【出版記念会(講演)に参加して理解したこと】
タムソンは、ヘボン、フルベッキなどに比べてあまり活動内容が知られていないために中島先生は、タムソンの生涯を分かり易く紹介されたので良く理解できました。
内容が多岐にわたるので、ここでは一部に留めます。
タムソンは、当初日本において教派を越えた教会の在り方、すなわち超教派主義教会を目指し奔走した。
しかし、切支丹禁制の高札が撤去された後にメソジスト派などの宣教師が多く派遣されてきたため、超教派主義教会の設立は非現実的となった。
そのため長老主義教会だけでも合同を目指そうという議が起こり、1877(明治10)年に長老派は合同して「日本基督一致教会」を創立した。
超教派主義を標榜していたタムソンにとっては満足いくものではなかったが、現実を受け入れその後の伝道活動をされた経緯が理解できた。

【出版記念会(講演)に参加して思ったこと、感じたこと】
中島先生は、ゼミ講義中に本書の編集過程について良くお話をされていました。
この度、念願叶って刊行できたことをゼミ生一同大変嬉しく思っています。
誠におめでとうございます。
先生は、「タムソンは、ヘボン、ブラウン、フルベッキに劣らず研究に値する大きな人物であったことが、調べれば調べるほど分かってきました。
思えば30年も追いかけて来てようやく全貌が見えつつある。」旨申しております。
先生は、若かりし頃にアメリカでの調査研究の過程で現地新聞社から取材を受け、写真付きの記事が掲載された貴重な出来事の一端を今回の講演の場で紹介されました。
このように先生は、ビジネスマン時代から現在に至るまで執念を持ち続け、研究に打ち込まれております。
その姿勢には改めて畏敬の念を抱きました。
本「校友団体情報」欄に「旧古河庭園と染井霊園フィールド・ワークの実施」2013年4月5日付け)を寄稿しております。
今回の講演に参加させていただき、再び染井霊園を訪ねてみたくなりました。
最後になりましたが、この機会を得、明治学院大学校友の中島先生並びに横浜プロテスタント史研究会の世話人代表である岡部一興先生の両先生に深く感謝申し上げます。
誠にありがとうございました。
(世話人:海瀬春雄)

(横浜指路教会 会堂)
(横浜指路教会 会堂)
(題:「タムソン宣教師と日本の近代化」)
(題:「タムソン宣教師と日本の近代化」)