中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」三菱開東閣フィールド・ワークの実施 (ヘボン塾講座有志の会)

当ゼミ設立4年目の2015年度は、新たにゼミ生1名が加わり、学院創設に貢献した一人、フルベッキ博士について学んでいます。テキストとして高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』(新教出版社)を使用し、ゼミ生で輪読後、中島先生の解説、質疑応答などを通して、これからの母校のあるべき姿を皆で考える力を養っています。
今回は、日本の資本主義の発展と共に事業拡大に成功し、旧三菱財閥を築いた岩崎家ゆかりの「三菱開東閣」(以下、「開東閣」)のフィールド・ワークについて報告させていただきます。「開東閣」は岩崎家のもと別邸で、港区高輪と品川区北品川にまたがる八ツ山台地にあります。このあたりはかつて徳川家康公の鷹狩りや接待用の御殿があったことから、御殿山とも呼ばれています。
私たち10名(中島先生およびゼミ生9名)は6月1日(月)11:00に品川駅高輪口に集合、その足で一路「開東閣」を目指しました。好天に恵まれ汗ばみながら15分程で到着、「関係者以外立ち入り禁止」の立て札を横目に重厚な正門を入り、まず左手にある馬小屋跡の立派な赤煉瓦棟を見学しました。その後、マネージャーの出迎えを受け壮麗な本館に足を踏み入れ、一旦ロビーに手荷物を置いて、邸内の広芝、藤棚、日本庭園、釣月庵、バラ園、松柏壇などの散策を行い、本館に戻り瀟洒な個室で昼食を楽しみました。食後マネージャーの案内で、本館内(2階建て、建築延面積970坪)を見学しました。
その中で学んだことは下記のとおりです。(写真下に続く)

三菱2代目当主岩崎彌之助(創始者・岩崎彌太郎の弟)は、維新後伊藤博文の邸宅地となっていたこの地16,500坪を購入し、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計によって洋館の建築に着手、4年余の歳月をかけて明治41(1908)年に荘重な高輪別邸を完成させました。別邸は彌之助の長男の4代目当主岩崎小彌太が数年間住まいとしましたが、その後賓客の接待、関東大震災以降は三菱社内親睦の場としても利用されました。「開東閣」の名は、昭和13(1938)年に小彌太がこの土地建物を三菱社に譲った時に命名されたとのことです。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年5月に空襲を受け、石造りの外壁を残しただけで屋根および内部はほとんど焼け落ちてしまいました。戦後約10年間GHQに接収され、返還後は三菱地所の所有となり、昭和36(1961)年に国道改修工事のために敷地の一部を割譲、現在の敷地は11,200坪とのことです(まだ広い!)。昭和38年に三菱系各社の迎賓施設として利用するため、各社の協力のもと復旧工事に着手し外観を復元、その後も内部改装や免震工事を行い維持管理に努め、今日に至っている由です。
当日この由緒ある本館と広大な敷地の利用者は、関係者を除き私たちだけで、正に贅沢で貴重な体験でありました。なお、予習時にヘボン塾の優等生、林董(はやしただす)の孫の林忠雄が、岩崎小彌太の養子になっていることを先生から教えて戴きましたが、当日その歴史の重さを合わせ感じながら体験できたことは喜びであり、感謝しつつその余韻に長く浸りたく帰り道にコーヒーショップに皆で立ち寄りました。(世話人:海瀬春雄)