大磯町フィールドワーク歴史研究の補足説明と一部訂正 (ヘボン塾講座有志の会)

掲載内容に2点の誤りがありました。
ここに訂正と補足説明をさせていただきます。

・①島崎藤村が大磯に移り住んだ年
(誤)明治16年
(正)昭和16年
・②
(誤)山形有朋
(正)山県有朋

7月24日掲載の上記写真は旧林董(はやし ただす)邸前(現在は翠渓荘)。
下記写真は島崎藤村邸の中庭。
林董は終生、「私はヘボン塾の出身」と経歴に記して感謝していた。
また兄の松本順は佐藤泰然の次男で、大磯町の恩人となる。
昭和4年に偉大な功績を後世に伝えようと、町民有志によって照ヶ崎海岸に松本順謝恩碑が建立された。

旧林董(はやしただす)の紹介文(ウィキペディア百科事典)
董の孫・忠雄は三菱財閥の4代目総帥・岩崎小弥太の養嗣子となった。
忠雄の妻・淑子は旭硝子の創業者・岩崎俊弥の次女として生まれ、伯父・小弥太の養女となった。
忠雄が小弥太の婿養子となったことにより、林家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係となる。
また、董の娘・菊は福澤諭吉の次男・捨次郎に嫁ぐ。

明学関係者の一人、中島 信行(なかじま のぶゆき)氏は、日本の政治家。男爵。
通称は作太郎。最初の妻は陸奥宗光の妹中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。
坂本龍馬の海援隊で活躍した。
龍馬の死後は陸援隊に参加する。
維新後は新政府に出仕し、外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学。
その後は神奈川県令や元老院議官をつとめた。
自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となる。
第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から立候補して当選。
第1回帝国議会に於いて初代衆議院議長に選出されて就任。
その後は明治26年(1893年)にイタリア駐在特命全権公使、同27年(1894年)には貴族院議員に勅選。
明治29年(1896年)6月、維新の功により男爵を授けられる。
明治32年(1899年)、療養中の神奈川県大磯別邸にて死去。享年54。