中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」国際善隣協会公開フォーラムに参加 (ヘボン塾講座有志の会)

当ゼミは、2009年度から2013年度にかけて校友会とキリスト教研究所の共催で開講された「ヘボン塾校友講座」から生まれた団体です。受講生からはもう少し勉強を続けたいという声が上がり、講師をされた本学の元客員教授の中島耕二先生からも自主ゼミのご提案があり、2012年4月に活動を開始し、7年6か月が経過しました。
その間、ヘボン博士をはじめ多くの宣教師の各書簡集あるいは伝記類の輪読、フィールド・ワークの適宜な実施、朗読劇の上演、各研究会の随時参加など活動をしております。現在は、明治学院神学部の教授もされたT.T.アレクサンダー宣教師(博士)について、同宣教師の曾孫であるジョアンナ・シェルトン女史の著『わたしの家族の明治日本』(文藝春秋、2018年)を輪読しています。

今回はゼミの一環として、中島先生が講演をされた「国際善隣協会公開フォーラム」に、ゼミ生6名が参加したので報告させていただきます。

主催:一般社団法人 国際善隣協会
日時:2019(令和元)年10月31日(木)14:00 ~ 16:00
会場:国際善隣協会 会館 5階 会議室
演題:日本の夜明けとフルベッキ博士
講師:中島耕二 元明治学院大学客員教授、博士(文学)
参加者:約50名(満員)

中島先生は配布されたレジュメ(パワーポイント資料)と「年表」に基づき説明をされましたが、ここではレジュメの各タイトルを記載のうえ一部内容を抜粋し、項目(はじめに、本論、むすび)を加えながらその骨子をご報告いたします。
なお、質疑応答時間は長く設定され多くの質疑がありましたが、ここでは省略いたします。

(はじめに)
 フルベッキ博士とは
  1859年11月7日に来日した、アメリカ・オランダ改革教会(The Dutch Reformed Church in America)宣教師。長崎で、後に明治政
  府の要人となる人々に欧米の知識を授け、留学生斡旋、海外使節団の提言、新政府お雇いとして、教育および法制度の改革、諸制度
  の建策等当時、日本の近代化に最も貢献した人物であった。
  本来の宣教師としても、聖書の翻訳、神学教授、教会の形成、地方開拓伝道に尽くし、日本のプロテスタント布教に大きな足跡を残
  した。1898年に東京で没し、青山霊園に眠る。享年68歳。
 「島崎藤村『夜明け前』と明治維新」
 フルベッキの生涯時代区分
 フルベッキ研究の視座
 日本語主要参考文献

(本論)
 ①オランダ時代
 ②アメリカ時代(2/1)
 ②アメリカ時代(2/2)
 ③長崎時代(2/1)
 ③長崎時代(2/2)
 ④東京お雇い時代(1869~1877)
 ブリーフ・スケッチ(海外使節団)の提言
 岩倉使節団
 開成学校・大学南校・南校・第一番中学(1869年4月1日~1873年9月12日)
 正院・左院・元老院翻訳局法律顧問(1874年12月1日~1877年9月)
 その他国立公文書館等所蔵法学書
 同僚宣教師ワイコフの回想
  ・「フルベッキ氏は夜の時間を猛烈な読書と研究に消費せざるを得なかったのです。氏がある時筆者に語ったところによれば、政府
   へのお雇い期間中は読書とその結果を説明するのに忙しく、仕事の大部分を口頭で行っていたため、ものを書く時間も機会も持て
   なかった。その結果、筆下手になってしまった」。(The Japan Evangelist, June 1894)
         →フルベッキは、自ら勉強し理解したことを、すべて記憶し翌日には日本人同僚に口述するという毎日であった。長崎時代も同
     じ勉強法であったと思われる。(中島先生の見解)
 ⑤東京伝道時代(1877~1898)
 同僚宣教師ワイコフの追想
  ・彼は極端に謙虚な人でした。その謙虚ぶりとは、自らを謙遜するのではなく、自分のことに触れることが避けられるなら努めてふ
   れないという姿勢でした。
  ・彼は物欲のない人でした。人にものをあげるという点においては、彼は気前が良かったという以上の説明ができないのです。
  ・彼は愛情の深い人でした。
  ・彼は明朗な人でした。相手の母国語で自由に話をし、音楽の才能を持ち、頼まれれば即座に楽器を奏で歌いました。ユーモア精神
   に富んでもいました。
  ・「彼は神と共に歩み、神が取られた(注:天国に連れていった)のでいなくなった」のです。

(むすび)
 フルベッキ宣教師(博士)は、夜明け前(幕末)の1859(安政6)年11月7日に長崎に到着した。長崎時代には日本語を学びながら、「済美館」や「致遠館」で後の明治政府の要人となる人々に欧米の知識を授けた。その後明治政府お雇い時代には日本の近代化(教育及び法制度の改革、諸制度の建策等)に最も貢献された。これら時代は同博士にとっては「準備期間」と位置づけられる。
 その後、本来の宣教師の使命として、築地時代は旧約聖書の翻訳や東京一致神学校、引き続き明治学院邦語神学部の教授等を務め、赤坂時代には関東一円、信州、北陸、名古屋、岩手、青森など地方伝道に注力した。
 しかし、1898(明治31)年3月10日に自宅で急逝された。享年68歳であった。葬儀は3月13日に芝教会で執り行われ、近衛連隊儀仗兵に守られ青山墓地に埋葬され、翌年12月に知友によって墓碑が建立された。
 なお、「機会がありましたら青山墓地への墓参や明治学院礼拝堂前のフルベッキ記念碑を訪ねられたら幸いです。」とむすばれた。

 《公開フォーラムに参加して思ったこと、感じたこと》
 先生は、今回の講演には幅広い方々がご参加されると想定し、冒頭その基準をどこに置くべきか言及された。しかし、史料に基づくアカデミックな雰囲気を残しながらパワーポイントを活用し、時系列的に非常に分かりやすく掘り下げて説明されたので、新たな知識も修得いたしました。すなわち、同博士が如何に日本の夜明けに多大な貢献をされたにも拘わらず、ご自身はそれを公言せず謙虚な姿勢を貫いたことに感銘いたしました。ヘボン博士にも通じるものがあり、以前にも増して同博士への畏敬の念を強く抱きました。
 今回の講演には、明治学院OB・OG約30名が参加され、母校愛を感じました。これは偏に元ゼミ生の辻丸 篤氏が同講演を発起人として提案され、且つその後も引き続き広報・動員を積極的に活動された賜物であります。
 なお、このような講演内容が明治学院で改めて企画・開催されることを強く希望いたします。
 最後になりましたが、この機会を得、中島先生並びに国際善隣協会の皆様に深く感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
(世話人:海瀬春雄)

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