ヘボン塾講座有志の会

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」新栄教会創立150周年記念行事に参加など

当ゼミは、元本学客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、2012年4月に活動を開始し、11年6か月が経過しました。その間、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士、横浜の女性宣教師たち、J.H.バラ博士、T.T.アレキサンダー博士の各書簡集や伝記類の輪読、フィールド・ワークの適宜な実施、朗読劇の上演、並びにキリスト教史学会大会、外国人居留地研究会全国大会など各研究会に随時参加しながら学習活動を続けてきました。
2020年3月以降はコロナ禍のため休講を余儀なくされていますが、その代替として現在もeメールによる「ゼミ通信」を寄稿し合いながら、中島先生及びゼミ生間のコミュニケ―ションを図りつつ、テンタティブに活動しその方向性を模索しているところです。

 この度は、直近の具体的な活動2件についてご報告します。

 (その1)
当「校友団体情報」として昨年6月28日付で「中島耕二編『タムソン書簡集』出版記念会に参加」を報告しましたが、そのタムソン宣教師(博士)が設立した日本基督教団「新栄教会」は本年9月20日に創立150周年を迎え、その記念礼拝と行事が下記のとおり行われ、当ゼミからゼミ生3名とその友人1名の計4名が参加しました。
なお、新栄教会は東京に出来た最初のプロテスタント教会で戦前まで築地にありましたが、創立初期には東京一致神学校、築地大学校および東京一致英和学校の多くの教員・学生・生徒、井深梶之助第二代総理の親族も何人も信徒として所属し、明治学院とは深いつながりがありました。

 場所:東京都目黒区中町1-6 -16
日時:2023年9月17日(日)10時30分 ~ 14時00分
記念礼拝:説教 キスト岡崎さゆ理宣教師(アメリカ改革教会)
     司式 一之木幸男牧師
     奏楽 矢野浩一氏
愛餐会+新栄教会小史(パワーポイントによる紹介):中島耕二先生
記念コンサート ~ アイルランド音楽の調べ ~
        ティンホイッスル&アイリッシュフルート:安井マリさん
        アイリッシュハープ:梅田千晶さん
出席者:62名

 【参加して思ったこと、感じたこと】
一之木牧師は本学社会学部の出身で、明るく穏やかな方であり、その働きに同窓生として頼もしく思いました。
キスト岡崎さゆ里宣教師から「人は皆、多かれ少なかれ不安を抱えて生きていて、自分を守ることに一所懸命になり勝ちですが、そのような時こそ、他の人達のために何かできることが、その苦難を乗り越える力、そして国々の光になる。」とお話をされました。(ゼミ生の舎人和子さんの速記録より引用)
まさに“Do for Others”を実践されたヘボン博士、タムソン博士など多くの来日宣教師に改めて感謝の念を抱いた次第です。
愛餐会の中で、中島先生は「新栄教会小史」について、非常に分かり易くご説明され、出席の皆さんは熱心に聞きいっておられました。
記念コンサートは、日本でも古くから親しまれているアイルランド民謡や讃美歌が演奏され、中でも讃美歌312番「いつくしみふかき」は出席者全員で歌い、日々の喧騒を忘れさせる素晴らしいひと時をいただきました。
演奏者は中島先生の知人であり、先生が出演依頼されたとのことですので改めてその交友の広さを認識しました。
「新栄教会」にとっては、先生は重要なお立場であることを理解する共に、記念すべき素晴らしい会にお誘いいただき感謝しております。

 (その2)
ヘボン博士は、1859(安政6)年10月のアメリカ長老教会宣教医としてクララ夫人と共に来日し、神奈川成仏寺に3年仮寓したのち1862(文久2)年12月に横浜居留地に転居され、1875(明治8)年9月までの約13年間お住まいになられました。
そのヘボン博士邸跡地には、同博士の多くの功績を称えた「ヘボン博士顕彰碑」(1949(昭和24)年10月建立)があります。
その花植え清掃活動は、毎年ヘボン顕彰会(会長:阿部志郎先生、世話人:島田貫司氏)が主催され、2022(令和4)年10月からはヘボン顕彰碑・愛護会(代表世話人:明治学院同窓会横浜支部長 永井 彪氏)に引き継がれました。
本年度は10月14日(土)に実施され、参加者は20名でした。そのうち、当ゼミは、自由参加として7名(中島先生、ゼミ生2名、ゼミ生のご家族4名)が参加しました。
参加者は、この地にあった「ヘボン塾」が現在の明治学院に発展したこと、生活の糧を得られていることはヘボン博士のお陰であるなど、それぞれ思いを馳せながら、除草、パンジー60苗植え付け作業に勤めました。
作業終了後、中島先生は、ヘボン博士邸やその周辺の貴重な古写真多数を示しながら、当時の様子を説明されました。

 【参加して思ったこと、感じたこと】
本年度で花植え清掃活動は74回を迎え、歴代の主催者の労苦を思いながら感謝しています。
今回その労苦を目の当たりにしました。すなわち、花植えの際の水やりや作業後の手洗いのために、主催担当者が「ヘボン顕彰碑」のある横浜合同庁舎に水を工面に訪ねたところ、同庁舎の守衛係から厳しく拒否をされたことです。従って、かなり離れた場所にある「公衆トイレ」までポリバケツを持参し、水を汲んでその目的を収められました。このように協力を得られなかったり、渋られたりしたことは、過去にもあったと耳にしたことがあります。今後、その年によっては同庁舎の協力を得られたり、得られなかったりでは根本的な解決にならないと考えます。
そこで、僭越ではありますが素朴且つ飛躍的な提案があります。明治学院の創立者をヘボン博士としているならば、学校法人明治学院は「『ヘボン博士顕彰碑』のある土地」を購入すべく広くから寄付金を募ったうえで所有し、所有後は学院の管理のもと水道の引き込みも可能となり、且つ中学校から大学まで授業の一環として活用できますので、一考に値するものと考えます。
学校法人同志社は、創立者新島譲にゆかりのある土地を所有のうえ顕彰碑を建立しており、それを拝見したことがあります。
なお、本活動の参加者は毎年約20名前後であり、それも高齢者に偏りがありますので、若者の参加を期待したいと思います。
(世話人:海瀬春雄)

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 (花植え清掃活動後の「ヘボン博士顕彰碑」)

 

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」中島耕二編『タムソン書簡集』出版記念会に参加

当ゼミは、元本学客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、2012年4月に活動を開始し、10年2か月が経過しました。
その間、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士、横浜の女性宣教師たち、J.H.バラ博士、T.T.アレキサンダー博士の各書簡集や伝記類の輪読、フィールド・ワークの適宜な実施、朗読劇の上演、並びにキリスト教史学会大会、外国人居留地研究会全国大会など各研究会に随時参加しながら学習活動を続けてきました。
2020年3月以降はコロナ禍のため休講を余儀なくされていますが、その代替として現在は、eメールによる「ゼミ通信」を寄稿し合いながら、中島先生及びゼミ生間のコミュニケ―ションを図りつつ、コロナ禍収束後の活動に備えています。

この度は、「横浜プロテスタント史研究会2022年6月例会(第433回)」において、中島耕二編『タムソン書簡集』出版記念会(講演)が開催され、ゼミ生10名(うち4名はオンライン(Zoom))が参加したので報告させていただきます。

日 時:2022年6月18日(土)14時00分 ~ 16時00分
場 所:日本基督教団 横浜指路教会 会堂
開催方法:対面とオンライン(Zoom)
題  :「タムソン宣教師と日本の近代化」
講 師:中島耕二先生(横浜プロテスタント史研究会世話人、フェリス女学院歴史資料館研究員、元明治学院大学客員教授、東北大学博士(文学))
参加者:会堂での出席者26名、オンライン(Zoom)参加者24名、計50名

中島先生はパワーポイントにより、配布資料「タムソン年譜(中島耕二編集)」も参考にしながら詳細に説明をされましたが、ここでは抜粋し主な内容をご報告いたします。
なお、発表後多くの質疑応答がありましたが省略します。

(はじめに)
1.書籍の案内
中島耕二編『タムソン書簡集』(教文館、2022年3月30日、四六判 394頁、定価(本体5,800円+税))
2.『タムソン書簡集』出版の経緯
本書の編集作業は、新栄教会創立140周年(2013年)の翌年5月から書簡集編集委員会委員、書簡集実務会委員、翻訳クループカ ルテットを構成・担当のうえ開始し、書簡の収集・コピー・翻訳・各書簡の内容の見出し作成、詳細な注、目次・年譜およびタ ムソン師や家族写真の使用許可申請など編集作業を進めた。
5年目以降(2018年~)は出席者の体調管理などから、また特に 2020年春から新型コロナウイルスのパンデミックで不要不急の集会自粛環境の中、検証、検索作業が滞りがちになったが、2022 年3月30日に刊行できた。
しかし、出版数日後に新栄教会牧師 本間敏雄氏が召天されましたが、大切な本書をお届けできたことはせめてもの慰めであっ た。
3.タムソンとは
D.タムソン師(博士)(以下、「タムソン」あるいは「デビッド」と言う。)(1835-1915)は、アメリカ長老教会海外伝道局か ら派遣された宣教師である。
幕末の1863年5月に来日し、52年の長きに亘る働きののち日本で生涯を閉じた。
その過程で伝道と日 本の近代化に大きく寄与した。
しかし、J.C.ヘボン博士(以下、「ヘボン」と言う。)、S.R.ブラウン博士(以下、「ブラウン」と言う。)、G.F.フルベッキ 博士(以下、「フルベッキ」と言う。)に比べて世に知られていない。その原因は「語り部」がいなかったからである。

4.本日の報告「タムソン宣教師と日本の近代化」
(本論)
1.生誕から来日
1-1. 先祖
祖父はアメリカ合衆国オハイオ州ハリソン郡の郡長、父デビッドは大規模農場経営者。
母サラ・リーは著名な長老教会牧師ジョン・リーの娘。
1-2.生い立ち
1835年9月21日 オハイオ州ハリソン郡アーチャー(Archer,Harrison Count)で三人兄弟の二男として生まれる。
1-3. ウェスタン神学校
 1859年(24歳)オハイオ州ニューアセンズ(New Athens)のフランクリン大学を卒業し、ペンシルベニア州アレゲニー (Allegheny)のウェスタン神学校(現ピッツバーグ神学校)に入学。
1862年(27歳)6月 同神学校卒業。ウエスト・バージニア州の長老教会牧師に就任。
同年海外伝道局に宣教師志願し日本派遣が決まる。
同年11月30日 単身ニューヨーク港を出航。喜望峰経由で上海へ向かう。

2.来日から東京基督公会設立まで
2-1. 第一次横浜時代
1863(文久3)年(28歳)5月18日 神奈川沖到着。
1864(元治元)年(29歳)7月 横浜英学所教師として積分・代数を担当。
1869(明治2)年(34歳)2月 小川義綏(以下、「小川」と言う。)、鈴木鉀次郎および鳥屋だい、の3人に授洗する。
2-2. 上京
1869(明治2)年(34歳)12月 小川夫妻を伴い上京。
築地雑居地入船町に居住。

2-3. 第一次東京時代
1871(明治4)年(36歳)2月 和歌山藩に招待され、小川を伴い10日間滞在。
同藩大参事津田出(又太郎)等に西洋の国政、英米の憲法、宗教等の講義を行う。
同藩に配流中の長崎浦上キリシタン(287人)の苛酷な状況を知る。
帰京後、横浜の英文紙 に配流キリシタン釈放について投稿する。
同年6月17日 ヘボン、C.カロザース(以下、「カロザース」と言う。)およびタムソンの連名で信教の自由に関し、アメリカ政府を通じて日本政府に要求すべしとのアピールをアメリカ長老教会海外伝道局に送付。
同年6月23日 太政官派遣十三大藩海外使節団の通訳兼コンダクターとして横浜出発。
万国福音同盟日本支部を代表し、各国福音同盟会を訪問、日本における信教の自由促進の協力を訴える。
この働きが半年後に米欧を訪問した岩倉使節団への欧州各国 からの圧力となり、切支丹禁制の高札撤去の大きな要因となる。
2-4. 第二次横浜時代
1872(明治5)年(37歳)7月10日 アメリカから横浜に戻る。
病気のJ.H.バラ(以下、「バラ」と言う。)を助けしばらく横浜公会を指導。
同年9月20日~25日 横浜居留地39番ヘボン邸において第一回在日宣教師会議が開催され、聖書の共同訳、超教派主義教会の形成を採択。
2-5. 第二次東京時代
1873(明治6)年(38歳)2月24日 切支丹禁制の高札、撤去される。
同年4月27日 メアリー,C,パーク(以下、「メアリー・パーク」あるいは「メアリー」と言う。)(1841―1927)、初めてのアメリカ長老教会独身女性宣教師(ニューヨーク婦人伝道局派遣)として来日。
同年9月20日 日本基督東京公会(新栄橋教会、新栄教会)創立、仮牧師に就任。
築地居留地17番B号の東京ユニオン・チャーチを借りて礼拝を開始。
フルベッキ日曜学校教師として応援する。
同年12月30日 在日アメリカ長老教会ミッション、中会組織の日本長老公会を設立。
ヘボン、カロザース、H,ルーミス(以下、「ルーミス」と言う。)、E,R,ミラーおよびO,M,グリーンが参加。
タムソンは小会のない中会設立は、本国長老教会規則に 違反していると訴えて不参加。
1874 (明治7)(39歳)1月 メアリー・パークとケイト,M,ヤングマン(以下、ヤングマン」と言う。)が築地居留地六番 B棟で寄宿女学校(女子学院の前身校の一つ)を始める。
同年5月12日 メアリー・パークと結婚。
同年12月8日 タムソン雇人小川に対し東京裁判所から出頭命令書がアメリカ公使館経由届く。
横浜公会信徒伊藤庭竹の葬儀を キリスト教式に行ったことで奥野昌綱(以下、「奥野」と言う。)と小川の二人が起訴され裁判となる。
葬儀、埋葬の自由を 求め裁判所と戦う。
同年12月31日 タムソンの駐日アメリカ公使館通訳官の任命書が届く。
自給宣教師となる。
1875(明治8)年(40歳)1月3日 新島襄、タムソンの求めにより東京公会で説教行う。
同年3月10日 東京公会信徒8名(安川亨、戸田忠厚(以下、「戸田」と言う。)を含む)が、東京第一長老教会に転籍する。
新島襄が東京公会で超教派主義批判の話をした影響による。
同年6月19日 築地雑居地南小田原町三丁目、新栄橋袂に新礼拝堂建設、献堂式行う。
教会名を「新栄橋教会」とする。
ブラ ウン、バラ、フルベッキ(以上改革教会)およびルーミス(長老教会)出席。
1877(明治10)年(42歳)9月17日 日本基督一致教会創立。
アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革教会、スコットランド一致長老教会の在日ミッションおよび日本基督公会と日本長老公会の合同教会決定。
同年10月3日 日本基督一致教会第一回中会(於:横浜海岸教会)開催。
議長を務める。
奥野、小川、戸田の三人が按手礼受領する。
同年10月7日 築地居留地6番小会堂に東京一致神学校(明治学院神学部前身校)開校。
講師に就任し旧約聖書釈義を担当。

3.直接伝道指導・支援
1882(明治15)年(47歳)11月8日~12月7日 関東北部へ小川、聖書販売人3人を引き連れて長期伝道。
1884(明治17)年(49歳)日本基督一致教会の高知伝道に加わる。高知の初穂となった廣井寅に授洗。
1885(明治18)年(50歳)日本昔噺シリーズ本『桃太郎』、『花咲爺』、『かちかち山』など日本昔噺の6話を英訳。
タムソ ンが洗礼を授けた長谷川武次郎が出版。
1886(明治19)年(51歳)8月 ウースター大学から神学博士号の学位を受ける。
1887(明治20)年(53歳)10月22日 二女マミーがジフテリアに罹り死去する。
享年9歳8ヶ月。
東京染井霊園外人墓地(東京都豊島区駒込5丁目)に埋葬。
1899(明治32)年(65歳)5月 夫妻で石川県金沢地方伝道。
金沢教会、金沢女学校(現北陸学院)で講演。
同年 長女ルース、ウースター大学を卒業し来日。
女子学院教師となる。
のち津田塾で教える。
1900(明治33)年(66歳)角筈衛生園理事を務める。
1901(明治34)年(67歳)三女グレース、ウースター大学を卒業し来日。
女子学院教師となる。
 1915(大正4)年(79歳)5月23日 レバノン教会(旧角筈講義所、現高井戸教 会)聖日礼拝説教「信仰生活」のあと体調を崩す。

(むすび)
1915(大正4)年10月29日午後6時30分に召天された。享年80歳であった。
同年11月1日午後1時から宣教師生命をかけて創立した築地新栄教会で葬儀が執行された。
二女マミーの眠る染井霊園外人墓地に埋葬される。
1927(昭和2)年5月17日 妻メアリーが召天された。
享年86歳であった。
夫デビッド、二女マミーと共に染井霊園外人墓地に 埋葬される。

タムソンは、日本における信教の自由促進を訴え、切支丹禁制の高札撤去や葬儀、埋葬の自由に尽力した。
また、日本基督東京公会(現新栄教会)など多くの教会を創立し、日本人牧師を育て多くの教会を誕生させた。
併せて、妻はヤングマンと共に築地居留地六番B棟で寄宿女学校(通称B六番女学校)を開き、長女、三女には女子学院教師に就かせるなど教育面にも力を注いだ。
このようにタムソンは、生涯家族共々日本の近代化に大きく寄与された。
このことを多くの人に知っていただき学ばれることを期待します。

【出版記念会(講演)に参加して理解したこと】
タムソンは、ヘボン、フルベッキなどに比べてあまり活動内容が知られていないために中島先生は、タムソンの生涯を分かり易く紹介されたので良く理解できました。
内容が多岐にわたるので、ここでは一部に留めます。
タムソンは、当初日本において教派を越えた教会の在り方、すなわち超教派主義教会を目指し奔走した。
しかし、切支丹禁制の高札が撤去された後にメソジスト派などの宣教師が多く派遣されてきたため、超教派主義教会の設立は非現実的となった。
そのため長老主義教会だけでも合同を目指そうという議が起こり、1877(明治10)年に長老派は合同して「日本基督一致教会」を創立した。
超教派主義を標榜していたタムソンにとっては満足いくものではなかったが、現実を受け入れその後の伝道活動をされた経緯が理解できた。

【出版記念会(講演)に参加して思ったこと、感じたこと】
中島先生は、ゼミ講義中に本書の編集過程について良くお話をされていました。
この度、念願叶って刊行できたことをゼミ生一同大変嬉しく思っています。
誠におめでとうございます。
先生は、「タムソンは、ヘボン、ブラウン、フルベッキに劣らず研究に値する大きな人物であったことが、調べれば調べるほど分かってきました。
思えば30年も追いかけて来てようやく全貌が見えつつある。」旨申しております。
先生は、若かりし頃にアメリカでの調査研究の過程で現地新聞社から取材を受け、写真付きの記事が掲載された貴重な出来事の一端を今回の講演の場で紹介されました。
このように先生は、ビジネスマン時代から現在に至るまで執念を持ち続け、研究に打ち込まれております。
その姿勢には改めて畏敬の念を抱きました。
本「校友団体情報」欄に「旧古河庭園と染井霊園フィールド・ワークの実施」2013年4月5日付け)を寄稿しております。
今回の講演に参加させていただき、再び染井霊園を訪ねてみたくなりました。
最後になりましたが、この機会を得、明治学院大学校友の中島先生並びに横浜プロテスタント史研究会の世話人代表である岡部一興先生の両先生に深く感謝申し上げます。
誠にありがとうございました。
(世話人:海瀬春雄)

(横浜指路教会 会堂)
(横浜指路教会 会堂)
(題:「タムソン宣教師と日本の近代化」)
(題:「タムソン宣教師と日本の近代化」)

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」ワークショップ「ラトガース大学出身の在日宣教師たち」に参加

当ゼミは、元本学客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、2012年4月に活動を開始し、9年4か月が経過しました。その間、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士、横浜の女性宣教師たち、J.H.バラ博士、T.T.アレキサンダー博士の各書簡集や伝記類の輪読、フィールド・ワークの適宜な実施、朗読劇の上演、並びにキリスト教史学会大会、外国人居留地研究会全国大会など各研究会に随時参加しながら学習活動を続けてきました。
2020年1月からは、横浜指路教会 教会史編纂委員会編『G・W・ノックス書簡集』(キリスト新聞社、2006年)の輪読をスタートしましたが、同年3月以降コロナ禍のため休講を余儀なくされています。その代替として現在は、eメールによる「ゼミ通信」を寄稿し合いながら、中島先生及びゼミ生間のコミュニケ―ションを図りつつ、コロナ禍収束後の活動に備えています。

この度は、Zoomによるワークショップ「ラトガース大学出身の在日宣教師たち」(ラトガース大学アジア言語文化学科プロジェクト “Rutgers Meets Japan”)に、ゼミ生5名が参加したので報告させていただきます。

日時:2021年8月5日(木)13時00分 ~ 16時40分
開催方法:オンライン(Zoom) ※フェリス女学院歴史資料館から中継
講師:中島耕二先生(フェリス女学院歴史資料館研究員)
   辻直人先生(和光大学現代人間学部教授)
   小檜山ルイ先生(東京女子大学現代教養学部教授)
司会:若林晴子先生(ラトガース大学アジア言語文化学科助教授)
参加者:61名

スケジュール:
13:00 ~ 若林晴子先生 趣旨説明
13:10 ~ 中島耕二先生
    ラトガース大学の卒業生の日本における系譜とその働き(前半)
    ― バラ、スタウト、ブース、ワイコフ、デマレスト
14:00 ~ 辻直人先生
    ラトガース大学の卒業生の日本における系譜とその働き(後半)
    ― ハリス、スカッダー、シェーファー、ダルイー、シェンク
15:15 ~ 小檜山ルイ先生
    E.S.ブースとフェリス・セミナリの教育
16:15 ~ 全体質疑
16:40   終了

内容が多岐にわたりますので、中島耕二先生と辻直人先生による「ラトガース大学の卒業生の日本における系譜とその働き」(前半、後半)に限定して報告いたします。また、講演内容は項目のみとし、質疑応答内容についても省略します。


(中島耕二先生)
テーマ:ラトガース大学の卒業生の日本における系譜とその働き(前半)
<はじめに>
・ラトガース大学の所在地 ・私のラトガース・コレクション ・最初の5人のラトガース大学卒業来日宣教師 ・初期来日ニューブランズウィック(NBW)神学校卒業生
<本論>
J.Hバラ
・10人兄弟姉妹の二男 ・出自 ・初代ラトガース大学OB来日宣教師 ・草鞋履き開拓伝道 ・直接伝道のパイオニア
H.スタウト
・スタウトの来日まで ・長崎ステーション ・神学教育と九州伝道 ・神学部の盛衰・失意と帰国、晩年 ・在日中の奉仕
E.S.ブース
・出自 ・長崎・横浜・帰国 ・長老教会の出身
M.N.ワイコフ
・第一次来日まで ・お雇い教師時代 ・教育宣教師として来日 ・宣教師としての働き
N.H.デマレスト
・来日まで ・神学教育 ・帰国後本国で牧師 ・再来日と挫折
<5人のまとめ>
1.5人とも農家出身、M.N.ワイコフとN.H.デマレストは富農の出身。長老教会来日宣教師は職業家庭(医師、弁護士、牧師、政治家など)出身者が多いのと対照的。
2.任務は伝道と教育に集中している。
3.政治的活動は行わず、宗派には寛容である。彼らの個性的・自由度が高い伝道活動は、 日本の教会形成に大きな思想的影響を与えた。

(辻直人先生)
テーマ:ラトガース大学の卒業生の日本のおける系譜とその働き(後半)
<はじめに>
・改革教会来日宣教師の概要 ・宣教地の拡大(北日本ステーション、南日本ステーション) ・初任地別宣教師数推移など。最初の5人のラトガース大学卒業来日宣教師につぐ5人を紹介。
<本論> 以下の5人の宣教師を説明
H.ハリス 在日21年
F.S.スカッダー 在日10年
L.J.シェーファー 在日26年
E.C.ダルイー 在日5年
H.W.シェンク 在日7年
<おわりに>
1.5人の宣教師の日本での宣教活動は、初期来日宣教師の在日年数に比べ相対的に短い。
2.L.J.シェーファーは、戦前から教会や学校で宣教活動をしており、戦後においても引き続き復興活動をしている。
3.日本での宣教活動を終え、帰国後における米国での活動は米国オランダ改革教会に拘っていない。
4.日本とラトガース大学とのキリスト教を介した関わりは、L.J.シェーファーの働きを 除き、戦前出身者では1923年に来日したE.C.ダルイー以降はいない。
5.彼等にとって、日本宣教活動をどのように経験し、何を得たであろうか?今後の研究課題としたい。

【ワークショップに参加して理解したこと】
米国オランダ改革教会ミッションが1859年から1939年までに派遣した来日宣教師の内訳は、男性宣教師43人、同夫人34人、女性宣教師53人、不明2の計132人であった。そのうち、今回のワークショップで取り上げられたラトガース大学出身者の宣教師は男性10人である。
同宣教師たちの任務は伝道と教育に集中していた。その10人のうち7人は、明治学院(前身校を含む)にゆかりがあることを学んだ。その7人を紹介いたします。なお、後段3人の存在は今回初めて知りました。
  J.H.バラ(バラ塾、植村正久、山本秀煌、熊野雄七らに授洗、横浜先志学校主宰、明治学院理事)
 H.スタウト(スタウト塾、瀬川浅、留川一路らに授洗、東山学院創立)
 M.N.ワイコフ(横浜先志学校校長、東京一致英和学校教授、英和予備校教授、明治学院 普通学部教授)
 H.ハリス(東京一致英和学校教授、英和予備校教授、明治学院普通学部教授)
 F.S.スカッダー(明治学院高等学部・神学部教授)
 L.J.シェーファー(明治学院神学部・高等学部教授)
 E.C.ダルイー(明治学院中学部・高等学部・高等商業部教授)

【ワークショップに参加して思ったこと、感じたこと】
講師をされた中島耕二先生及び辻直人先生は明治学院大学OBであり、頼もしく思いながら拝聴させていただきました。そして、オンライン(Zoom )講演という制約の中、貴重な 内容を分かり易く教授していただき非常に勉強になりました。
上記7人の宣教師は明治学院の礎を築かれた大恩人であり、現在も母校で学びの機会与えていただき「人の道を学べる」ことは、宣教師の皆様のお陰であると感謝しております。
しかし、一本学卒業生として次のように素朴な疑問を抱きました。
《今回の同プロジェクトに本学院として共催あるいは後援を何故されなかったかです。ワークショップの内容の多くは、明治学院に関わる内容でした。》
最後になりましたが、コロナ禍にも拘わらずこの機会を得、中島耕二先生及び辻直人先生はじめとした各先生並びにフェリス女学院歴史資料館の皆様に感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
(世話人:海瀬春雄)

ラトガース大学、ワークショップフライヤー(ワークショップのお知らせ)

 

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」横浜プロテスタント史研究会例会に参加

当ゼミは、元本学客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、2012年4月に活動を開始し、7年10か月が経過しました。その間、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士、横浜の女性宣教師たち、J.H.バラ博士、T.T.アレキサンダー博士の各書簡集あるいは伝記類の輪読、フィールド・ワークの適宜な実施、朗読劇の上演、並びにキリスト教史学会大会、外国人居留地研究会全国大会など各研究会に随時参加しながら学習活動をしてきました。
1月からは、横浜指路教会教会史編纂委員会編『G・W・ノックス書簡集』(キリスト新聞社、2006年)を輪読しております。

今回はゼミの一環として、中島先生が発表された「横浜プロテスタント史研究会2020年2月例会(421回)」に、ゼミ生5名が参加したので報告させていただきます。

日 時:2020(令和2)年2月15日(土)14:00 ~ 16:00
場 所:横浜指路教会1階会議室
題  :「横浜指路教会第二代仮牧師 ジョージ・ウイリアム・ノックス」
講 師:中島耕二 横浜プロテスタント史研究会会員、元明治学院大学客員教授、東北大学 博士(文学)
参加者:約30名

中島先生はパワーポイントに基づき、配布された先生編集「同宣教師年表」と『福音新報』(抜粋)なども参照しながら説明をされましたが、ここでは項目(はじめに、本論、むすび)を抜粋し、その骨子をご報告いたします。
なお、発表後多くの質疑応答がありましたが、ここでは省略いたします。

(はじめに)
G・W・ノックス宣教師は、1853年8月11日にアメリカ・ニューヨーク州ロームで生まれた。祖父は成功した実業家・銀行家、父は長老教会の有力牧師であった。ハミルトン大学(当時、祖父が理事長)、オーバン神学校で学び、1877年に同校を卒業と同時にMiss Anna Caroline Holmes(1851~1942)と結婚し、按手礼を受領のうえ日本派遣宣教師となって同年9月29日にサンフランシスコ港を出航した。

(本論)
在日宣教師時代(1)
 ・1877年10月20日 ノックス夫妻横浜到着 横浜居留地39番居住
 ・1877年~1880年 横浜バラ学校教師
 ・1877年~1881年 住吉町教会仮牧師
 ・1881年~1882年 築地大学校英語教授 築地居留地27番居住
 ・1883年~1886年 東京一致神学校英語神学部教授 説教学、基督教証拠論
 ・1883年 朝鮮人最初のプロテスタント信者となった李樹廷を指導、韓国視察旅行
 ・1883年11月30日 ミラー夫妻と高知伝道
 ・1884年3月13日 ブライアン夫妻と高知伝道
 ・1885年5月15日 高知教会設立式洗礼執行 片岡健吉、坂本直寛、原保太郎、西森拙三ら男子7名、女子6名に授洗

在日宣教師時代(2)
 ・1886年 帝国大学哲学、倫理学および心理学講師
 ・1886年 明治学院創立理事会議長、白金校地決定に賛成意見
 ・1887年 明治学院神学部教授 論理学、組織神学、哲学史を担当
 ・1889年 第一回夏期学校(同志社)講演「三位一体の説」、「生命の説」
 ・1890年 第二回夏期学校(明治学院)講演「贖罪論」、「現今の神学」
 ・1890年5月17日 一高対明治学院野球試合観戦中「インブリー事件」に立ち会う
 ・1891年 明治学院理事員会代表
 ・1893年 高知大挙伝道参加、6月19日宣教師を辞任しアメリカに帰国

アメリカ帰国後
 ・1893年6月19日 横浜出航、アメリカ帰国
 ・1894年12月 ニューヨーク州Ray Presbyterian Church仮牧師
 ・1895年12月 同教会牧師
 ・1896年 ユニオン神学校講師、弁証論担当
 ・1899年2月 Ray教会牧師辞任
 ・同年ユニオン神学校教授、哲学・宗教史・海外伝道担当
 ・1903年 Yale大学講師兼任
 ・1906年 ユニオン神学校校長代行
 ・1911年11月 神学校主催東洋伝道地視察旅行出発
 ・1912年4月25日 ソウル、朝鮮で肺炎となり客死

(むすび)
G・W・ノックスは来日早々住吉町教会(現横浜指路教会)の第二代仮牧師に就任した。また、横浜バラ学校(ヘボン塾の後身)、築地大学校(横浜バラ学校を改称)、東京一致神学校(明治学院の前身)で教師・教授をつとめ、その後は明治学院神学部の看板教授の一人として活躍した。さらに、高知伝道には特に積極的であり、後に衆議院議長や同志社総長となった片岡健吉や著名な牧師となった坂本直寛などを含め13名に洗礼を授けた。1888(明治21)年に日本での宣教事業の功績に対しPrinceton大学から神学博士号の学位を贈られた。その後日本での15年間の伝道を終え、1893(明治26)年6月に帰国した。
アメリカに帰国後は、ニューヨーク州Ray Presbyterian Church牧師に就任するとともに、ユニオン神学校講師・教授・校長代行、Yale大学講師として、弁証論、哲学、宗教史、海外伝道などを講じた。こうした研究の蓄積は日本伝道を通じて得られたものであった。それらが評価されてHobart大学から法学博士号、Wesleyan大学およびYale大学から神学博士号を受領した。さらには、在日宣教師時代において日露戦争時の日本への言論協力が評価されて1908年に日本政府から「勲四等旭日小綬章」が贈られた。その後、1912(明治45)にユニオン神学校主催東洋伝道地視察旅行に参加し、インド、中国の視察を終えてソウル(朝鮮)で肺炎になり同年4月25日に客死した。享年59歳であった。日本政府は同宣教師の死去後の5月に「勲三等瑞宝章」を追贈した。その後6月にニューヨーク州Knoxboro Cemetryに埋葬された。

《同例会に参加して思ったこと、感じたこと》
G・W・ノックス宣教師(博士)は、ヘボン博士、ブラウン博士およびフルベッキ博士などと比較すると世に知られておらず、今回同例会に参加して同博士の全体像を知ることができ、改めてその偉大な働きを認識しました。例えば、日露戦争時に日本に言論協力をしたことにより日本政府から「勲四等旭日小綬章」を贈られ、さらには「勲三等瑞宝章」を追贈されるなど、如何にその貢献度が大であったかがわかります。また、明治学院創立理事会議長として白金校地決定にリーダーシップを発揮すると共に、個人として現在歴史的建造物になっている明治学院記念館(旧神学部校舎)建設に大口の寄付をされていることを知り、感謝の念を強く抱きました。
なお、いつも投稿記事で言及していることですが、このような貴重な発表内容は明治学院の財産であり、僭越ですが当学院としても同様な企画・開催をされることを強く希望いたします。
最後になりましたが、この機会を得、中島耕二先生並びに横浜プロテスタント史研究会の世話人である岡部一興先生に深く感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

(追記)
同例会が開催される同日午前に、「ヘボン博士横浜山手245番旧宅跡」を訪ねました。訪問の目的は、同地に介護付き有料老人ホームが建設中との中島先生からの情報に基づき、ヘボン顕彰会が同博士を顕彰するために建てられた記念碑が現在も保存されているかを確認するためでした。
同地は、博士ご夫妻が1876(明治9)年3月から1881(明治14)年4月まで、および1883(明治16)5月から1892(明治25)年10月までの通算約14年間居住された土地であります。その間、博士は旧約聖書翻訳社中の委員長としてその完訳まで務め、さらには明治学院総理として高齢にも拘わらず白金に通勤された記念すべき土地であるため、同顕彰会はその跡地である日本銀行家族寮の門の脇に記念碑を建てられました。しかし、2015年10月24日(土)に当ゼミのフィールド・ワークとして同地を訪問した時は、同家族寮は閉鎖状態にあり、記念碑の保存が課題であることを認識した経緯があります。(参照:当HP「校友団体情報」欄での2015年10月30日付け投稿記事)
同地に到着し確認すると、同老人ホームは建物および外構も既に完成しており、心配していた旧門と一体となった記念碑はそのままの状態で保存されていました。建築主や関係者の皆様に感謝するとともに、安心した次第です。
上記状況について、中島先生から例会に参加された皆様に経緯を含め説明し、併せてカメラに収めた記念碑の映像も回覧し、安堵の感想をいただきました。
(世話人:海瀬春雄)

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(現在の横浜指路教会)

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(ヘボン博士記念顕彰碑 横浜山手245番旧宅跡)

 

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」国際善隣協会公開フォーラムに参加

当ゼミは、2009年度から2013年度にかけて校友会とキリスト教研究所の共催で開講された「ヘボン塾校友講座」から生まれた団体です。受講生からはもう少し勉強を続けたいという声が上がり、講師をされた本学の元客員教授の中島耕二先生からも自主ゼミのご提案があり、2012年4月に活動を開始し、7年6か月が経過しました。
その間、ヘボン博士をはじめ多くの宣教師の各書簡集あるいは伝記類の輪読、フィールド・ワークの適宜な実施、朗読劇の上演、各研究会の随時参加など活動をしております。現在は、明治学院神学部の教授もされたT.T.アレクサンダー宣教師(博士)について、同宣教師の曾孫であるジョアンナ・シェルトン女史の著『わたしの家族の明治日本』(文藝春秋、2018年)を輪読しています。

今回はゼミの一環として、中島先生が講演をされた「国際善隣協会公開フォーラム」に、ゼミ生6名が参加したので報告させていただきます。

主催:一般社団法人 国際善隣協会
日時:2019(令和元)年10月31日(木)14:00 ~ 16:00
会場:国際善隣協会 会館 5階 会議室
演題:日本の夜明けとフルベッキ博士
講師:中島耕二 元明治学院大学客員教授、博士(文学)
参加者:約50名(満員)

中島先生は配布されたレジュメ(パワーポイント資料)と「年表」に基づき説明をされましたが、ここではレジュメの各タイトルを記載のうえ一部内容を抜粋し、項目(はじめに、本論、むすび)を加えながらその骨子をご報告いたします。
なお、質疑応答時間は長く設定され多くの質疑がありましたが、ここでは省略いたします。

(はじめに)
 フルベッキ博士とは
  1859年11月7日に来日した、アメリカ・オランダ改革教会(The Dutch Reformed Church in America)宣教師。長崎で、後に明治政
  府の要人となる人々に欧米の知識を授け、留学生斡旋、海外使節団の提言、新政府お雇いとして、教育および法制度の改革、諸制度
  の建策等当時、日本の近代化に最も貢献した人物であった。
  本来の宣教師としても、聖書の翻訳、神学教授、教会の形成、地方開拓伝道に尽くし、日本のプロテスタント布教に大きな足跡を残
  した。1898年に東京で没し、青山霊園に眠る。享年68歳。
 「島崎藤村『夜明け前』と明治維新」
 フルベッキの生涯時代区分
 フルベッキ研究の視座
 日本語主要参考文献

(本論)
 ①オランダ時代
 ②アメリカ時代(2/1)
 ②アメリカ時代(2/2)
 ③長崎時代(2/1)
 ③長崎時代(2/2)
 ④東京お雇い時代(1869~1877)
 ブリーフ・スケッチ(海外使節団)の提言
 岩倉使節団
 開成学校・大学南校・南校・第一番中学(1869年4月1日~1873年9月12日)
 正院・左院・元老院翻訳局法律顧問(1874年12月1日~1877年9月)
 その他国立公文書館等所蔵法学書
 同僚宣教師ワイコフの回想
  ・「フルベッキ氏は夜の時間を猛烈な読書と研究に消費せざるを得なかったのです。氏がある時筆者に語ったところによれば、政府
   へのお雇い期間中は読書とその結果を説明するのに忙しく、仕事の大部分を口頭で行っていたため、ものを書く時間も機会も持て
   なかった。その結果、筆下手になってしまった」。(The Japan Evangelist, June 1894)
         →フルベッキは、自ら勉強し理解したことを、すべて記憶し翌日には日本人同僚に口述するという毎日であった。長崎時代も同
     じ勉強法であったと思われる。(中島先生の見解)
 ⑤東京伝道時代(1877~1898)
 同僚宣教師ワイコフの追想
  ・彼は極端に謙虚な人でした。その謙虚ぶりとは、自らを謙遜するのではなく、自分のことに触れることが避けられるなら努めてふ
   れないという姿勢でした。
  ・彼は物欲のない人でした。人にものをあげるという点においては、彼は気前が良かったという以上の説明ができないのです。
  ・彼は愛情の深い人でした。
  ・彼は明朗な人でした。相手の母国語で自由に話をし、音楽の才能を持ち、頼まれれば即座に楽器を奏で歌いました。ユーモア精神
   に富んでもいました。
  ・「彼は神と共に歩み、神が取られた(注:天国に連れていった)のでいなくなった」のです。

(むすび)
 フルベッキ宣教師(博士)は、夜明け前(幕末)の1859(安政6)年11月7日に長崎に到着した。長崎時代には日本語を学びながら、「済美館」や「致遠館」で後の明治政府の要人となる人々に欧米の知識を授けた。その後明治政府お雇い時代には日本の近代化(教育及び法制度の改革、諸制度の建策等)に最も貢献された。これら時代は同博士にとっては「準備期間」と位置づけられる。
 その後、本来の宣教師の使命として、築地時代は旧約聖書の翻訳や東京一致神学校、引き続き明治学院邦語神学部の教授等を務め、赤坂時代には関東一円、信州、北陸、名古屋、岩手、青森など地方伝道に注力した。
 しかし、1898(明治31)年3月10日に自宅で急逝された。享年68歳であった。葬儀は3月13日に芝教会で執り行われ、近衛連隊儀仗兵に守られ青山墓地に埋葬され、翌年12月に知友によって墓碑が建立された。
 なお、「機会がありましたら青山墓地への墓参や明治学院礼拝堂前のフルベッキ記念碑を訪ねられたら幸いです。」とむすばれた。

 《公開フォーラムに参加して思ったこと、感じたこと》
 先生は、今回の講演には幅広い方々がご参加されると想定し、冒頭その基準をどこに置くべきか言及された。しかし、史料に基づくアカデミックな雰囲気を残しながらパワーポイントを活用し、時系列的に非常に分かりやすく掘り下げて説明されたので、新たな知識も修得いたしました。すなわち、同博士が如何に日本の夜明けに多大な貢献をされたにも拘わらず、ご自身はそれを公言せず謙虚な姿勢を貫いたことに感銘いたしました。ヘボン博士にも通じるものがあり、以前にも増して同博士への畏敬の念を強く抱きました。
 今回の講演には、明治学院OB・OG約30名が参加され、母校愛を感じました。これは偏に元ゼミ生の辻丸 篤氏が同講演を発起人として提案され、且つその後も引き続き広報・動員を積極的に活動された賜物であります。
 なお、このような講演内容が明治学院で改めて企画・開催されることを強く希望いたします。
 最後になりましたが、この機会を得、中島先生並びに国際善隣協会の皆様に深く感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
(世話人:海瀬春雄)

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中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」東京ヘボンクラブ主催のバス旅行に参加

当ゼミは、本学元客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、設立して8年を迎えました。その間、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士、横浜の女性宣教師たち、J.H.バラ博士の各書簡集あるいは伝記類の輪読、フィールド・ワークの適宜な実施、朗読劇の上演、各研究会に随時参加など活動をしてきました。現在は、T.T.アレキサンダー博士の曾孫のジョアンナ・シェルトン著『わたしの家族の明治日本』(文藝春秋、2018年)を輪読しています。

この度、東京ヘボンクラブ主催のバス旅行「世界遺産 富岡製糸場 & フルベッキゆかりの甘楽教会」に、ゼミ生4名がフィールド・ワークの一環として参加したので報告させていただきます。

主 催:東京ヘボンクラブ
日 時:2019年(令和元)年5月16日(木)9:00 ~ 18:30
行 程:東京駅 → 高坂SA(休憩)→ 富岡IC → 昼食 → 富岡製糸場(見学)→ 甘楽教会(見学・中島先生による小講演)
    → こんにゃくパーク (試食・土産品購入)→ 富岡IC → 三芳PA(休憩)→ 東京駅
参加者:29名

ここでは、東京ヘボンクラブの顧問でもあります中島先生が、甘楽教会において講演した内容「フルベッキ宣教師(博士)の生涯」について、その骨子を報告いたします。

甘楽教会は、「新島襄が設立に関わった安中教会信徒の伝道をきっかけとして、1884年の甘楽第一基督教会が設立されたのが始まり」である、といただいたパンフレットに記載されている。いわゆる「組合派(会衆派)」の流れを汲んでいるが、1941年のプロテスタント33教派 が合同したことにより、現在は日本基督教団の教会となっている。設立当時の教会堂は富岡製糸場前にあったが、現教会堂は二代目に当たる。

中島耕二編「フルベッキ宣教師の活動・居住地履歴から見る(Japan Directory を中心に調査」(2019年1月1日)について、同資料を配布のうえ説明されたが、その内容を踏まえて概略を以下紹介いたします。

フルベッキは、1830年1月23日にオランダ・ザイストで誕生し、22歳の時にニューヨーク州オーバン市に住んでいた姉夫婦を頼り渡米した。その後、ウィスコンシン州でのタンク鋳物工場(造船部品)やアーカンソー州で土木機械技師の仕事に携わった。
しかし、土木工事は激務であり猛暑が重なり体調を崩し、コレラに罹ってしまう。病床で少年時代に聞いたカール・ギュツラフの講演を思い出し、もし病気が癒えたなら海外伝道のために献身したいと祈った。この祈りが通じて、病気は奇跡的に治った。そこで技師の仕事をやめて、1856年9月にニューヨーク州にある長老教会のオーバン神学校に入学した。
この地で、オワスコ・アウトレットのサンド・ビーチ改革教会の牧師を務めるS.R.ブラウン牧師と出会い、教会の手伝いをすることになった。
1859年3月に同神学校の卒業を控え、ブラウンがフルベッキを日本派遣宣教師としてオランダ改革教会海外伝道局に推薦して、その結果、同海外伝道局がフルベッキを宣教師に任命した。4月18日には サンド・ビーチ教会で出会ったマリア・マニヨンとフィラデルフィアで結婚式を挙げ、そのわずか19日後の5月7日に「サープライズ号」でブラウンおよびシモンズ一家と共に日本に向けてニューヨークを出航した。上海に寄港した後、ブラウンとシモンズは先に神奈川に上陸し、フルベッキは1859年11月7日に長崎に上陸した。
その後長崎で、伝道と共に済美館(幕府所管の洋学校、1864年~)と長崎致遠館(佐賀藩洋学校、1868年~)においては英語だけでなく、政治や経済など西洋の近代科学についても教授した。その教え子の中には、後に明治期において活躍した大隈重信、副島種臣など多くの人材が含まれていた。
1869(明治2)年に明治政府に雇われ、日本の近代化政策、特に近代教育の礎を築き、引き続き元老院顧問を務め、その功績を認められ、1877(明治10)年に政府より勲三等旭日中綬章を授与された。
その後、政府の仕事から離れ東京一致神学校講師や華族学校教師、明治学院邦語神学部教授などに就任しながら、本来の使命である宣教師活動を再開し、信州ほか全国に亘る地方の開拓伝道に全力を傾けた。しかし、1898(明治31)年3月10日に赤坂区葵町の自宅で心臓麻痺のために急逝した。享年68歳であった。

中島先生の小講演は、フルベッキ宣教師(博士)は1885(明治18)年以降亡くなるまで13年間、夫人が子育ての為アメリカに在住し、別居状態という犠牲のうえに日本宣教の活動をされており、その恩恵を受けた明治学院や祝福をいただいた各地伝道先などは深く感謝しなければならない、と結ばれた。
甘楽教会礼拝堂に飾られている同宣教師(博士)の書「God is Love」(新約聖書ヨハネ第一の手紙4章16節の言葉)は、同宣教師(博士)が信州伝道の際に佐久でお世話になった岡部家から依頼されて揮毫したものである。岡部家の長男 岡部太郎氏は、その後同志社神学校に進学し、卒業後は当教会の2代目牧師として就任し長く奉仕された。そうした経緯から同書が岡部家から甘楽教会に寄贈され、今日我々が目にする栄に浴することが出来るようになった。

《バス旅行に参加して思ったこと、感じたこと》
参加者は、名簿から推定すると最高齢者は94歳、最年少者は46歳、中心年齢(N値)は70歳前後と思われ、幅広い年齢層から構成されていました。皆様は非常にお元気で勉強熱心な紳士・淑女の集まりであると感じました。これもヘボン博士が96歳まで長生きをされ、探求心旺盛な宣教医でしたので、それらを目標にされているのではないか、と自己紹介の際にふと思ったりもしました。また、中島先生の講演による「フルベッキ宣教師(博士)の生涯」を拝聴し、さらに「God is Love」の実物も拝見し、改めて同宣教師(博士)への畏敬の念を強く抱きました。

最後になりましたが、この機会を得、中島先生並びに東京ヘボンクラブの皆様に深く感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
(世話人:海瀬春雄)

甘楽教会












(写真:甘楽教会)


フルベッキ宣教師の書














(写真:フルベッキ宣教師(博士)の書)

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」NPO法人築地居留地研究会 平成31年3月度定例報告会に参加

当ゼミは、本学元客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、設立して7年が経過しようとしています。その間、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士、横浜の女性宣教師たち、J.H.バラ博士の各書簡集あるいは伝記類の輪読、フィールド・ワークの適時な実施、並びにキリスト教史学会大会や外国人居留地研究会全国大会など各研究会に参加しながら活動をしてきました。 4月からは、築地大学校(明治学院の前身)教授・舎監、明治学院神学部教授であったトーマス・T・アレキサンダー博士の曾孫のジョアンナ・シェルトン著『わたしの家族の明治日本』(文藝春秋、2018年10月)を輪読する予定をしています。

今回はゼミの一環として、中島先生が講演された「NPO法人築地居留地研究会 平成31年3月度定例報告会」に、ゼミ生9名が参加したので報告させていただきます。

開催日時や会場並びに次第など概要は下記のとおりでありました。

主催:NPO法人築地居留地研究会
後援:東京都中央区
日時:2019(平成31)年3月23日(土)14:00 ~ 17:45
会場:聖路加国際大学 聖路加臨床学術センター 3階3302号室    
            東京都中央区築地3-6-2
次第:Ⅰ 開会にあたって 挨拶 NPO法人築地居留地研究会理事長 水野雅生    
            Ⅱ 定例報告会  
                  テーマ:築地居留地と近代音楽 ―讃美歌と青年たちの出会い―
                with 聖路加国際大学聖歌隊の皆さんによる合唱
                  講 師:中島耕二(なかじま こうじ)          
                                  東北大学博士(文学)、
                                  築地居留地研究会理事、   
                                  明治学院大学元客員教授    
           Ⅲ 記念写真 聖路加国際病院旧館
    Ⅳ エクスカーション 講演に関連した史跡案内    
            V 講師を囲んでのお茶会    
           Ⅵ 終了
参加者:約80名(満員)

中島先生が上記テーマで講演された内容については、ここでは配布された詳細なレジュメから抜粋し、項目を加えながらその骨子をご紹介いたします。

1.はじめに  
日本の近代音楽、つまり洋楽の流入時期は、一般には1853年7月に黒船が浦賀に来航した時期と言われている。ペリー艦隊は軍楽隊を2組編成し、上陸、帰艦のたびに軍歌、アメリカ国歌やフォスターの曲などを演奏し、日本人に洋楽を聴かせていた。
 一方、日米修好通商条約締結の翌年、1859年にはプロテスタント宣教師が来日、神奈川(横浜)ではヘボン夫妻、S.R.ブラウン一家が成仏寺に居住し、日曜日には礼拝を守り讃美歌を歌っていた。ブラウン一家はポータブル・オルガンを持参し、日本人の一般庶民に讃美歌の旋律を届けている。
2.築地居留地で育てられた近代音楽とそれを担った音楽青年たち  
築地居留地では明治2(1869)年以降、カロザース宣教師夫妻の英語塾で少年、少女は讃美歌の指導を受けていた。後に音楽取調掛(後の東京音楽学校、現在の東京藝術大学音楽学部)の校長になる伊澤修二少年もここで学んだ。皆さんが聴いたり、歌ったりして良くご存じの童謡、文部省唱歌、歌曲、および県民歌など、日本を代表する曲を作った近代音楽家たちは、築地居留地と深い関係を持っている。以下、具体的に説明する。  
➀ 西村庄太郎(1864~1931)  
明治13(1880)年、横浜のバラ学校(ヘボン塾の後身)が築地居留地7番に新校舎を建てて移転し、築地大学校となる。そのとき生徒の一人であった西村少年も一緒に築地にやってきた。同少年は、横浜のヘボン塾でミス・マーシュ女性宣教師からオルガンの手ほどきを受け、短期間に「聖歌集」をマスターし、横浜第一長老教会(後の住吉町教会、現在の横浜指路教会)のオルガニストを頼まれるまでになった。彼が築地に来ると生徒仲間と新栄教会(戦時中、目黒に移転)に通い始めたが、早速オルガニストを依頼された。やがて彼のもとに音楽に関心を抱く後輩たちが集まって来て、新栄教会を教室にして彼から譜面の読み方やオルガンや洋楽の基礎を学ぶ。その音楽仲間に納所弁次郎、小山作之助、内田粂太郎の「築地大学校三羽烏」と呼ばれる音感に優れた生徒がいた。  
西村は同校を卒業し札幌農学校(現在の北海道大学)に入学するが、父親が急死したために横浜に戻った。後に商用でアメリカに滞在中、高峰譲吉博士と出会いタカジアスターゼの日本での一手販売権を得て、日本で友人3人と製薬会社を立ち上げた。それが三人の友、つまり三共、現在の第一三共である。西村庄太郎は音楽家にならず実業家になったが、立派な近代音楽家たちを育てた先人となった。  
➁ 納所弁次郎(1865~1936)   
築地の戸川邸で生まれ、家でも幼い時から讃美歌を聴き、また新栄教会や露月町教会に姉たちに連れられて礼拝に出席していた。明治15(1882)年に17歳で築地大学校に入学し、正課として朝夕の礼拝で讃美歌を歌い、日曜日には新栄教会の礼拝に出席し讃美歌を歌い、讃美歌漬けの毎日だった。弁次郎は音楽に特別関心があったので、宣教師のトーマス・T・アレキサンダーや上級生の西村庄太郎から放課後、特別にオルガンの奏法の指導を受けていた。同校を卒業すると音楽取調掛に進学し、優秀な成績を残した。卒業後は母校の教員、学習院教授を長く務め、その間「言文一致唱歌」運動を広め、特に学校唱歌に力を注ぎ、文部省に採用されるようになった。  
その代表作が「うさぎとかめ」や♪“桃から生まれた桃太郎” の「桃太郎」である。♪“もしもしかめよかめさんよ” の故郷は、この築地居留地と言って良いでしょう。    
~上記二曲を聖路加国際大学聖歌隊の皆さんが美しいハーモニーで合唱された~  
なお、文部大臣を歴任した永井道雄は、弁次郎の姪・永井次代(政治家永井柳太郎の妻)の子供にあたる。  
➂ 小山作之助(1864~1927)  
新潟県に生まれ16歳で上京し、明治13(1880)年に築地大学校に入学し、学校では弁次郎とずっと一緒に行動し、新栄教会の礼拝にも出席した。同校を出ると音楽取調掛に進学し、やはり優秀な成績を残し卒業後は、長く母校に務め教授となり、退官後も音楽教育に力を注 ぎ後進を指導した。中でも滝廉太郎を育て、ドイツ留学の世話をしたことは良く知られている。  
代表作の♪“卯の花の匂う垣根に” という「夏は来ぬ」は小学校の音楽教科書にも採用された。ちなみに作詞はかの佐々木信綱である。  
➃ 内田粂太郎(1861~1941)  
明治12(1879)年、17歳のとき群馬県前橋から横浜に出てバラ学校に入学し、翌年同校の築地居留地移転(築地大学校になる)と共に上京した。築地に移るとすぐに新栄教会に通い始め、明治14(1881)年3月に石原保太郎牧師から洗礼を受けて新栄教会員となった。内田もやはり納所や小山と一緒に築地大学校および新栄教会で西洋音楽に目覚め、納所や小山と同様に音楽取調掛に進学した。卒業後は彼らと別れ群馬県師範学校に奉職し、唱歌の普及や作曲に努力した。内田が作曲した小学唱歌「秋景」(秋げしき)は大変人気があり当時良く歌われた。やがて、母校に戻り音楽取調掛の助教授、教授となり音楽教授法を講義した。その頃の教え子に三浦環や山田耕筰がいた。晩年は群馬に戻り県内の音楽教育に力を注いだ。  
➄ 北村季晴(すえはる,1872~1931)
 明治5(1872)年静岡に生まれ、明治10(1877)年に一家で銀座数寄屋橋に転居した。季晴少年は西洋音楽に興味を抱き築地居留地に出かけ、東京一致神学校(明治学院神学部の前身)などに顔を出しフルベッキ宣教師からオルガンを習うようになった。明治20(1887)年に東 京一致英和学校(築地大学校の後身)に入学し、朝夕の礼拝と新栄教会の日曜礼拝で讃美歌に出会った。この年、同校は築地から白金に移り明治学院普通学部になり、北村も白金に通うことになった。しかし、彼は初代総理であったヘボン博士から「君は音楽の才能の天分があるし、音楽を目指すなら明治学院よりも音楽学校の方が良い」と勧められ、東京音楽学校に転校した。同校卒業後は青森師範学校、その後長野師範学校に勤め、そこで明治33(1900)年に、現在も長野県出身者は誰でも歌えるほど県民に知れ渡っている「信濃の国」を作曲した。また、日本最初の創作オペラ「露営の夢」、和洋折衷歌劇「ドンブラコ」の作曲者として音楽界では良く知られた存在である。長野師範学校退職後は、東京音楽学校嘱託や三越呉服店の三越少年音楽隊を指導した。現在、長野県庁前に同氏の記念碑がある。  
➅ 大塚淳(すなお,1885~1945)  
父・大塚正心はクリスチャンの医師であり、ハンセン氏病院の慰廃園を開設し長く園長を務めた。母かねは山田耕筰の母ひさの妹である。 従って、淳は山田耕筰とは従兄弟関係にある。淳は幼い日両親に連れられて新栄教会に通った。大塚夫妻は息子の淳を明治学院に入れ、卒業後は医師の道に進むことを期待していたが、淳は音楽家を志望する。明治学院を卒業すると東京音楽学校に進学した。卒業後、慶応義塾のワグネル・ソサィエティーの常任指揮者、東京音楽学校助教授、教授、明治学院グレゴリーバンド、新交響楽団(現在のN響)および満州国新京交響楽団の常任指揮者を務める。慶応新応援歌の作曲や慶応義塾塾歌の編曲もしている。従兄弟で一歳違いの山田耕筰にとっては、淳は目標でありライバルでもあった。  
➆ 山田耕筰(1886~1965)  
明治19(1886)年6月に東京本郷で3人の姉、一人の兄と弟の二男として生まれた。一家はすぐに横須賀に引越し、耕筰は7歳まで住んでいたが家が焼け、長姉と一緒に二番目の姉夫妻が住む芝愛宕下に移る。そこで耕筰は近所のヤングマンが経営する第二啓蒙小学校に通う。しばらくして、父親も上京してヤングマン経営の聖書学館の事務を手伝うことになり、築地新栄町5丁目(現在の入船3丁目)にある第一啓蒙小学校内に一家で住み込む。ある日耕筰は小学校の大きな樫の木の看板が倒れてきて怪我をしたため、一家はヤングマンの住む築地居留地6番B棟に引っ越した。
自宅では両親や姉が毎日英語の讃美歌を歌い、主日には新栄教会に姉たちに連れられて通い讃美歌を聴き、知らず知らずにその旋律が身体に染み付いていった。また居留地の洋館から流れるピアノの調べ、墨田川の帆前船の船頭の親船を呼ぶ声など、築地居留地は耕筰の旋律の原点となった。10歳のとき父が療養のため一家は千葉に引っ越した。その後、長姉夫妻の元に引き取られ関西に移るが、波乱万丈の人生は自伝『若き日の狂詩曲』(中公文庫)を読んでください。
耕筰は明治33(1900)年6月のペンテコステに、後に岸田吟香の息子で麗子像で有名になった画家の岸田劉生と一緒に、数寄屋橋教会で田村直臣牧師から洗礼を受けた。やがて耕筰は従兄弟で一歳年長の大塚淳のアドヴァイスを受けて、彼を追って一年後に東京音楽学校を受験し合格した。その後の活躍は誰しも知るところである。    
~最後に出席者全員で「赤とんぼ」を斉唱した~

3.おわりに  「本日の報告によって、この築地居留地が近代日本の西洋音楽の発展を担った青年たちを育んでいった、重要な場所であったことを知って戴けましたら幸いです。」と結ばれた。

定例報告会後、聖路加国際病院旧館前で記念撮影をした。引き続き、講演に関連した史跡(築地居留地6番B棟など)を中島先生のご案内で探索した。その後、同先生を囲んでのお茶会があり、多くの質問が寄せられ先生は懇切丁寧に答えられていた。

《定例報告会に参加して思ったこと、感じたこと》
中島先生は講演をされる時は、いつも研究に基づき学術的にご説明をされますが、今回はテーマが出席者にとって身近なもののため研究に裏打ちされた内容を平易にご説明され、且つ上記聖歌隊の皆さんも加わり、和やかな雰囲気になるように工夫されて、大盛況であったと感じました。
なお、明治学院の前身校(ヘボン塾、バラ学校、築地大学校、東京一致英和学校、東京一致神学校)及び明治学院で学んだ多くの先輩諸氏が近代音楽の発展に多大に貢献された貴重な事績を私達ゼミ生は知り、非常に誇りに思いました。そして、本学の今後のあるべき姿の一部が見えたように感じました。本学の卒業生や現役の学生は、おそらく同内容について知っておられる方は少数と思われます。
従って、今後も学内外で同講演の開催を望みたいと思います。 最後になりましたが、この機会を得、先生並びに築地居留地研究会の皆様などに感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
(世話人:海瀬春雄)
海瀬さん写真










(写真:定例報告会のご案内)

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」第11回外国人居留地研究会全国大会に参加

当ゼミは、元本学客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、設立して6年半が経過しました。今回はゼミ活動の一環として「第11回外国人居留地研究会全国大会」(初日)にゼミ生8名が参加したので報告させていただきます。

開催日時や会場並びに次第など概要は下記のとおりでありました。

日時:2018年11月3日(土)13:00 ~ 17:15

会場:聖路加国際大学 アリスホール

           東京都中央区明石町10-1

テーマ:「居留地と女子教育」

次 第:

             (第一部)

             主催者挨拶    NPO法人築地居留地研究会理事長 水野雅生

             ご挨拶        東京都中央区区長 矢田美英

             ご挨拶      聖路加国際大学学長 福井次矢

             基調講演     東京女子大学教授 小檜山ルイ

                                             「居留地という空間と女性」

 

            (第二部)

            居留地代表者発表 テーマ「居留地と女子教育」

            コーディネーター 中島耕二 築地居留地研究会理事

                                             ①函館 酒井嘉子 はこだて居留地研究会会員

                                             ②東京 伊藤泰子 築地居留地研究会理事

                                             ③横浜 斎藤多喜夫 横浜外国人居留地研究会会長

                                             ④川口 杉山修一 プール学院学院長

                                             ⑤神戸 佐伯裕加恵 神戸女学院史料室

                                             ⑥長崎 姫野順一 長崎居留地研究会会長

                                             ⑦新潟 山田耕太 敬和学園大学学長

             シンポジウム   コーディネーター 中島耕二

                                               シンポジスト 各居留地発表者

             閉会挨拶

            次回開催地挨拶  斎藤多喜夫 横浜外国人居留地研究会会長

 

参加者:約320名

内容の要旨は次のとおりでありましたのでご紹介いたします。

 

 (外国人居留地とは*)

 江戸幕府は、1858(安政5)年の日米修好通商条約をはじめとしてイギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。これは「安政の五カ国条約」と総称されている。この条約では、箱館(現・函館市)、新潟、神奈川(現・横浜市神奈川区)、兵庫(現・神戸市兵庫区)、長崎の5港を開港、および東京(築地)と大坂(川口)を開市して、外国人の居住と貿易を認めた。しかし、実際に開港されたのは、神奈川の場合は横浜村(現・横浜市中区)であり、兵庫の場合は神戸村(現・神戸市中央区)であった。この条約により外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅商館を建てることが認められた。また、居留地の外国人は、居留地の十里(約40km)四方への外出や旅行も自由に行うことができた。この外国人居留地は、条約改正により1899(明治32)年に廃止されるまで41年間存続した。

   *同大会では当概要は基本的なことであり、理解していることを前提に詳細な説明は省略されたので、ここでは補足説明を加えた。

 

(第一部:基調講演)

「居留地という空間と女性」と題して、外国人居留地と女性に関しては、①居留地に対して日本側が提示した「女性」:遊郭と現地妻、②居留地に対して「西洋」が提示した「女性」:アメリカの白人中流女性などを例示しながら詳細に説明が行われた。さらに宣教師と「ホーム」の発信源としての居留地に関しても論じられた。すなわち、「居留地は、教育の揺籃の場であった。それは1890年代以降の官製良妻賢母教育が参照対象とした女子教育であったし(この2種の教育は似て非成るものであったが)、二〇世紀に入って大衆化される『主婦像』の原型を提供したものであった。」と結ばれた。

 

(第二部:各居留地代表者による発表とシンポジウム)

「居留地と女子教育」にスポットを当て、それぞれの居留地における宣教師(個人あるいは宣教師団)、いわゆるミッションによる女子教育が、日本の近代化とともにどのように展開され、またどのような社会的影響を与えていったかを各居留地の一校を例示して発表された。その対象とされた学校名は以下のとおりであった。

   函館:遺愛女学校、東京(築地):立教女学校、横浜:共立女学校

   大阪(川口):プール女学校、神戸:神戸女学院

   長崎:活水女学校、新潟:新潟女学校

なお、シンポジウムでは各居留地発表者は、先に発表した内容を掘り下げ、各校の特徴ある卒業生について、個人を対象にその足跡を追いミッション・スクールで受けた教育がどのように社会生活に活かされて行ったか事例報告を行い、コーディネーターはそれぞれに短いコメントを加えた。

最後にコーディネーターは「各居留地において宣教師が教えた内容は、女性に自立を目覚めさせ、多くの海外留学生の輩出をもたらし、日本の近代化に大きく貢献した。」と結ばれた。

 

(大会に参加して思ったこと、感じたこと)

基調講演では多角的な視点からの考察を拝聴し大変勉強になりました。各居留地代表者による発表とシンポジウムについては、それぞれの皆様が当該居留地に非常に誇りを持って深く研究されていることが感じられ、新しい知識を修得させていただきました。

本当にありがとうございました。感謝申し上げます。

なお、横浜での開催予定の次年度大会もぜひ参加したく思っています。

 

(付記)

『わたしの家族の明治日本』(文藝春秋、2018年10月)を刊行されたジョアンナ・シェルトン女史をご紹介いたします。

同女史は、1877(明治10)年に長老教会宣教師として来日し25年間日本伝道に生涯を捧げた曽祖父トーマス・T・アレキサンダー博士に強い共感を覚え、日本に何度も来られ、博士ゆかりの地・施設・人々を訪ねながら取材を重ね、関連史料や文献も探し求め、念願であった伝記を完成させ、2015年11月にアメリカで同書を出版した。同博士が築地大学校(明治学院の前身)教授・舎監、明治学院神学部教授として、築地居留地に11年弱住んだことから、同女史は2016年9月に築地居留地研究会においてアメリカでの同書出版の報告を兼ねて特別講演をされた。そして、今回は同書の日本語版の出版を機に再来日し、同大会にも特別ゲストとして参加された。同女史はアメリカ政府経済官僚として最年少で経済開発機構(OECD)の事務次長を務め、現在はモンタナ大学で客員教授をされている。

(世話人:海瀬春雄)

 img01 ヘボン塾講座有志の会写真

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真:聖路加国際大学)

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」第69回キリスト教史学会大会に参加

 

当ゼミは設立して6年半が経とうとしています。その間、元本学客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士の各書簡集あるいは伝記類の輪読と適時フィールド・ワークを実施してきました。現在は「横浜の女性宣教師たち」について学んでいます。

今回は、中島先生が研究発表された「第69回キリスト教史学会大会」にゼミ生として参加したので報告させていただきます。

 開催日時や会場並びに次第など概要は下記のとおりでありました。

 日時:2018年9月14日(金)~ 15日(土)

会場:(第1日)日本基督教団 金沢教会(第2日)北陸学院中学校・高等学校

次第:(第1日)開会式、研究発表Ⅰ、写真撮影、総会、キリスト教史学会賞授与および記念講演、シンポジウム、講演会

       (第2日)研究発表Ⅱ、研究発表Ⅲ、パネルディスカッション、閉会式

参加者:約100名

 そのうち、研究発表Ⅰの部で中島先生が「青木仲英―金沢教会初代牧師―」と題して発表された内容をレジュメから抜粋しその骨子をご紹介いたします。

 (研究発表の経緯)

中島先生は日本キリスト教史研究には宣教師の働きを再検証することが不可欠との思いから研究を始めたところ、明治期の地方伝道に大きな功績を残した牧師の一人として青木仲英の存在を知った。しかし、何故か『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、1988)に彼の名がないことから、調査を開始し長い年月をかけて青木牧師のご子孫を探り当て、各家に保存されていた貴重な史料を入手し、加えて青木牧師のすべての伝道地を訪ね現地調査を行い、今回実証に基づいた研究発表をされた。

 (序論)

日本基督一致金沢教会の初代牧師を務めた青木仲英(1858~1943)は、生涯を地方の開拓伝道に捧げたが、元来中央にあって教会の指導者として活躍し得る人物であった。では何故、彼が地方伝道者として生涯を送ることになったのか、その働きにもかかわらず『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、1988)に何故彼の名がないのか、その理由について、青木仲英の生涯を辿ることによって解明を試みたい。

(本論)

1.出自と教職者への道

青木仲英は安政5年4月28日(1858年6月9日)、武州岩槻藩江戸詰家老青木仲卒の長男として生まれ、上級武士の親族などに囲まれながら育てられた。仲英はアメリカ長老教会宣教師のカロザース、O.M.グリーンおよびインブリーらから指導を受け教職者になることを決心し、明治12(1879)年に東京一致神学校(明治学院の前身)に入学した。明治14(1881)年には神学生夏季伝道として、トーマス・ウィン宣教師を助け金沢、七尾、富山、高岡等北陸一帯で伝道奉仕をしている。翌明治15年6月に同神学校を卒業した。明治16(1883)年には按手礼を授けられている。

2.金沢教会初代牧師

明治18(1885)年4月には母、妻、長男、長女、弟二人とともに金沢に向け出発し、金沢教会初代牧師に就任した。在任中は金沢女学校(現北陸学院)第二代校長、浪花中会議長を務め、真宗勢力の牙城のなか教会員を増やしている。

3.地方開拓伝道

その後明治21(1888)年5月から大正4(1915)年4月まで27年間の長きに亘り家族帯同のもと、大阪、神戸、和歌山、高知県中村、徳島県池田、福井等次々と地方開拓伝道に仕え、行く先々で信徒を増やしていった。隠退教師となった後も、徳島県鷲敷で大正13(1924)年まで10年間奉仕をした。しかし、その地で妻のゑいを亡くしている。

(結論)

青木仲英は各地で大きな伝道成果を上げ、中央の教会に戻る条件は整っていた。しかし、その機会は得られなかったことは、仲英が長老教会出身者であることと関係している。当時、中央にあって日本基督教会をリードしていた植村正久や井深梶之助らは改革教会出身者であり、彼らとは教会観をはじめいろいろな面で意見を異にしていたことが挙げられる。すなわち、教派主義と超教派主義の問題、教会執行部の都市部伝道重視政策への反対など伝道に対する根本的な違いによるものであった。また、『日本キリスト教歴史大事典』に青木仲英の名が掲載されていないことは、日本キリスト教史研究者が伝道現場に注目してこなかったことを意味している。

 (中島先生からの指摘など)

キリスト教信徒が減少し今後ますます教勢が厳しいなか、この傾向を打開するためには青木仲英が実践したような地道な伝道活動が重要である。また、日本キリスト教史研究者は同様な視点から、数多くの先人牧師の働きを系統立てて調査研究することが必要であり、今後欠かせない作業である、と。

なお、同発表会場には史料を大切に保存し中島先生に提供された、青木仲英牧師の曾孫の方3名(うち1名は私達のゼミ生)とその家族が出席され皆様に紹介されました。

 (大会に参加して思ったこと、感じたこと)

各先生方の地道な史料収集や調査に基づいて纏められた研究内容を拝聴し、物の考え方、捉え方を改めて学ぶことができ非常に勉強になりました。また、内容を深耕しながら探求するひた向きな姿勢にも感動しました。さらに、記念講演、シンポジウムおよびパネルディスカッションでは幅広く知識を修得させていただきました。感謝申し上げます。

 (世話人:海瀬春雄)

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                                    (写真:金沢教会)                                        (写真:北陸学院ウィン館)

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」青山学院資料センターと青山霊園でのフィールド・ワークの実施

当ゼミは設立して5年が経ちましたが、その間、本学客員教授の中島耕二先生ご指導のもと、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士の各書簡集および伝記類の輪読と適時フィールド・ワークを実施してきました。新年度は、明治学院中興の祖のインブリー博士について学び始めております。

 今回は、4月19日(水)に中島先生と10名(ゼミ生OBなど2名を含む)のメンバーが参加した「青山学院資料センターと青山霊園」でのフィールド・ワークについて報告させていただきます。

 先ず「青山学院資料センター」を訪ねました。同センターは青山学院大学の青山キャンパス内の間島記念館にあり、1874年の創立から140年余にわたる青山学院の歴史資料の収集・保管・展示ほか、明治期キリスト教関係図書、本邦メソジスト教会関係資料などの収集・公開を行っていました。同展示ホールは広く、各資料が室ごとに整理・展示され、同センターの傳農和子氏の熱心なご説明も相まって良く理解できました。特に、アメリカの信徒や卒業生からの寄付金により取得した広大な青山キャンパスの土地や建物については、その御恩に報いるべく分かり易く展示してあり、母校愛醸成の原点との印象を持ちました。

同センターで1時間半にわたって学んだのち、同大学食堂で昼食をとりました。新学期のため新入生で満ち溢れており元気をいただきました。

 次に「青山霊園」に移動しました。同地は、旧美濃国郡上藩の藩主だった青山家の下屋敷跡地で、1874(明治7)年に東京府の管理のもと市民のための公共墓地となり、その後東京市に移管を経て現在は東京都所管の公営墓地となっています。総面積263,564平方メートル(約7万9千坪)、そのうち墓所面積128,019平方メートルと言われています。

今回は、この2年間学ばせていただいた明治学院創立者の一人のフルベッキ博士をはじめ、同霊園に眠る明治学院ゆかりの人々(14基)の墓参を致しました。

・フルベッキ夫妻〈アメリカ・オランダ改革教会宣教師、大学南校教頭、岩倉欧米使節団のきっかけとなった「ブリーフ・スケッチ」の作成者、明治学院教授〉

 ・シモンズ(アメリカ・オランダ教会宣教医、横浜十全病院設立者、福沢諭吉と親交)

 ・ノックス(アメリカ長老教会宣教師、明治学院教授)の息子

 ・マクラーレン(スコットランド一致長老教会宣教師、明治学院教授)の娘

 ・ランディス(アメリカ長老教会宣教師、明治学院教授)の息子

 ・アレキサンダー(アメリカ長老教会宣教師、明治学院教授)の娘

 ・マクネア夫妻(アメリカ長老教会宣教師、明治学院教授、明治学院ベースボールの父)

 ・井深梶之助(ブラウン塾生、東京一致神学校卒業、ユニオン神学校に留学、明治学院

第2代総理)

 ・吉原重俊(ブラウン塾生、アメリカでブラウン博士から受洗、日本銀行初代総裁)

 ・井深彦三郎(東京一致英和学校出身、井深梶之助弟、衆議院議員、井深八重の父)

 ・小川一真(築地大学校出身、写真家、帝室技芸員)

 ・中川愛咲(築地大学校・東京一致英和学校卒業、プリンストン大学などに留学、仙台医学専門学校教授)

 ・奥野昌綱(ヘボン、ブラウン両博士を助けて聖書翻訳、日本基督教会初代牧師)

 ・世良田 亮(海軍少将、明治学院理事、YMCA理事長)

なお、林董(ヘボン塾生、幕府派遣イギリス留学生、初代駐英大使、外務大臣、逓信大臣)の墓地を最後に訪ねたところ、特徴的な半円形の石碑が移動のうえ整地されていたため、全員衝撃を受け言葉が出ませんでした。

墓前で先生から配布戴いた資料により詳細にご説明をいただきました。これら先人達によって築かれた明治学院の歴史とその重さを改めて知らされ、私たちは感謝し今後何をなすべきかを自問自答しつつ、2時間半の墓参を終えました。

(世話人:海瀬春雄)

フルベッキ博士夫妻の墓前で

 「写真:フルベッキ博士夫妻の墓前で」