ヘボン塾講座有志の会

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」 主催 朗読劇「誇る者は主を誇れ」 の上演報告

 今年は明治学院創設者ヘボン博士生誕200年記念の年にあたり、明治学院大学キリスト教研究所と明治学院同窓会の後援をいただきながら、当ゼミ主催による「朗読劇『誇る者は主を誇れ』― ヘボンと是清―」を2015年11月28日(土)明治学院小チャペルにて上演しました。当日は快晴に恵まれ、86名という多くの方々にご来場いただきました。小チャペルの中は、荘厳な雰囲気に包まれ、あたかも時は1800年代、1900年代初頭にタイムスリップしたかのようなステージでした。

 脚本を書いた、にいくらせいこさんはゼミ生で、中島先生ご指導のもと、『ヘボン在日書簡全集』を中心にヘボン研究に取り組み、戯曲を創作されました。これはゼミにおける大きな成果と考えます。

 今回の上演に先立ち、ゼミ活動の一環として2014年12月17日に先生とゼミ生で朗読会を行いました。その後、ゼミ生間に是非他の方々にもお伝えしたいという思いが高まり、有志で練習を始めました。やがて、本格的に上演を目指すことになり、本学卒業生で演劇部OBであり、現在は劇団民藝の演出家をされている兒玉庸策氏に演出を依頼しました。メインキャストのヘボン博士役は明治学院大学学長補佐の岩谷英昭さんが引き受けてくださいました。演劇部OBが2名、ゼミからは5名が出演。他のゼミ生は準備の段階等で協力しました。

 インブリー館二階における9回の練習を重ねるうちに、間の取り方、発声の強弱、役の人物の背景を想像すること、行間を読み取ること等、各人の課題が次から次へと出てきました。いつも兒玉氏の的確なご指導をいただきました。

 ヘボン博士は米国長老教会伝道局から宣教医として派遣され、1859年10月18日にクララ夫人を伴なって神奈川に上陸しました。1863年にヘボン塾を開校し、当塾からは高橋是清をはじめ、林董、益田孝、鈴木知雄、三宅秀、佐藤百太郎、早矢仕有的、沼間守一など、政界、実業界、医学、教育の分野など多方面で活躍された方々を輩出しました。同博士は、医学生教育と施療を担当し、ヘボン塾での英語教育は主に同夫人によるものでした。生徒たちは同夫人から愛情深く教育を受け、本当の母親のような存在だったようです。

 帰国後、ニュージャージー州イーストオレンジに隠居された同博士は、訪れた高橋是清に言いました。それはパウロの言葉「誇る者は主を誇れ」でした。「たとえあなたが日本の頂点に立っても、それは主があなたを用いてくださっているのだから常に主に感謝して、誇る者は主のみである」と。日本における同博士の数えきれないほどの業績は、そして日本人への愛は、すべて主のお導きだと同博士は言われているのです。

 劇中で矢野隆山は宣教師 J・H・バラから洗礼を受け、日本のプロテスタント信者第一号になったとき、「初穂」という言葉がありました。私たちのこの朗読劇も同博士を敬愛し、多くの方々に伝えていくという意味において、私たちの中では初穂かも知れません。

 そして最後の場面は特に感動的でした。同博士を囲み、送る言葉が述べられた後、ロバート・ブラウニングの神聖な詩の朗読がありました。その後、出演者全員による讃美歌403番を歌う場面では、グリークラブの現役学生、OBOGの方々のコーラスが加わり、その聖なる調べは満場の皆さまの心に届けられました。

 ヘボン博士と、最高のパートナーであり生涯の同労者であるクララ夫人がキリスト教禁教の日本で種を蒔かれ、豊かな実りを得た時のことを知り、明治学院に学んだ私たちは「ヘボンの子」として、この教えを継承していかなければならないと思います。 

 最後に、多くの方々のお力添えにより、朗読劇を上演できたことを感謝いたします。(クララ夫人役兼記録係:舎人和子) 

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中島耕二ゼミ 「ヘボンの手紙を読もう会」 主催 朗読劇 「誇る者は主を誇れ」のご案内

 今年は明治学院創設者ヘボン博士生誕200年記念の年にあたり、明治学院大学キリスト教研究所と明治学院同窓会の後援をいただきながら、当ゼミ主催による「朗読劇『誇る者は主を誇れ』 ― ヘボンと是清 ―」を上演します。

 同朗読劇は11月28日(土)午後2時から明治学院小チャペル(記念館一階)で開演されます。原作者はゼミ生の新倉勢子さん、演出および出演者全員が本学出身者です。

 外教のキリスト教(プロテスタント)という巨木を正式に日本に植えた開拓者・開祖・宣教医ヘボン博士と、最高のパートナーであり生涯の同労者であるクララ夫人との、日本での宣教のお話です。

 多くの皆様のご来場をお待ちしております。(ゼミ世話人:海瀬春雄)

 朗読劇~1

 

 

 

 

 

                                                    

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」フィールド・ワーク「ヘボン博士山手245番旧宅跡」、「聖書和訳の碑(横浜共立学園構内)」などの実施

10月24日(土)のフィールド・ワーク「ヘボン博士記念碑」清掃奉仕終了後に、中島耕二先生と岡部一興先生(『ヘボン在日書簡全集』の編著者)のご指導のもと、山手地区でフィールド・ワークを体験しました。両先生の熱の籠ったご説明によりゼミ生7名が授けていただきました内容を下記のとおりご報告します。なお、途中まで津田一路先生(元白金高校およびテネシー明治学院高等部校長)も加わっていただきました。

まず、「ヘボン博士山手245番旧宅跡」を訪ねました。ヘボン夫妻は同地に1876(明治9)3月から1881(明治14)年4月まで、および1883(明治16)年5月から1892(明治25)年10月までの通算で約14年間居住されました。この地で同博士は旧約聖書翻訳社中の委員長としてその完訳まで務め、更には明治学院総理・教授として高齢にも拘らず白金に通勤され、その姿を想い浮かべると頭が下がりました。 現在、この地には日本銀行の家族寮が建っていますが閉鎖状態でした。門の脇には 同博士を顕彰した記念碑が残っていたので安心しましたが、今後その保存が課題であることを認識しました。

写真:門の脇の「ヘボン博士を顕彰した記念碑」の前で
写真:門の脇の「ヘボン博士を顕彰した記念碑」の前で




その後、ヘボン博士の「息子サムエル238番旧宅」付近を訪ねました。サムエルは、ウォルシ・ホール商会、日本郵船横浜支店およびスタンダードオイル横浜支店主任として、同地に1875(明治8)年3月から1896(明治29)年まで住まわれました。同博士邸とは近い距離に位置し、お互いにどのくらいの頻度で行き来したか新たに興味を抱きました。

次に、いわゆる「外交官の家」に入館しました。同建物は、1910(明治43)年に明治政府の外交官・内田定槌邸として、アメリカ人建築家J.M.ガーディナーの設計により現在の東京都渋谷区南平台に建てられたもので、1997(平成9)年に山手イタリア山庭園に移築され、同時に国の重要文化財に指定されたものです。内田定槌は、日露戦争当時ニューヨーク総領事を務め、ヘボン博士とも親しく接触した外交官であることを中島先生から新たに教えていただきました。

当初見学を計画していた横浜共立学園構内にある聖書和訳の碑「新約聖書和譯記念之地」は、当日、同学園の行事と重なり入構できないため、概観だけの見学に変更 したところ、岡部先生のお力添えで入構が可能になり、念願の聖書和訳の碑を見学することができました。このブロンズの版は、米国聖書協会により1931(明治6)年に新約聖書和訳完成50年を記念してブラウン博士邸跡に建てられたものです。なお、この地は同博士の「ブラウン塾」があったところでもあり、後に明治学院総理となった井深梶之助や青山学院院長の本多庸一、富士見町教会牧師の植村正久など、多くの有為な人材が学ばれました。同博士の偉大さを改めて痛感しました。

これでフィールド・ワークが終了と思ったところ、岡部先生から下岡蓮杖夫人美津の墓が地蔵坂に面した蓮光寺にあることを教えていただき訪ねました。下岡は日本初の写真館を開いた写真界の開祖の一人で、J.H.バラから受洗したクリスチャンでした。墓石は十字架を模した形をしていたので、夫人もまたキリスト教徒であったのではないかと想像を巡らしました。ちなみに下岡蓮杖の墓は都立染井霊園にあり、かつてゼミのフィールド・ワークで墓参を行いました。

なお、当日はJ.H.バラ夫人など明治学院ゆかりの多数の人々が眠っている「山手外国人墓地」で墓参をする予定でしたが、時間がタイトのため次の機会に譲ることにしました。 このように当日は中身の濃いフィールド・ワークを体験でき、両先生への感謝を胸になお一層勉学に励まなければならぬとゼミ生一同は心に誓いました。(世話人:海瀬春雄)

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」フィールド・ワーク「ヘボン博士記念碑」清掃奉仕の実施

当ゼミ2015年度後期は、新たにゼミ生2名が加わり心を新たにしてスタートしました。ヘボン博士生誕200年を記念して10月24日(土)に実施された「ヘボン博士記念碑」清掃奉仕については、当ゼミもフィールド・ワークの一環として参加しましたのでご報告します。

ヘボン博士は、1859(安政6)年10月にアメリカ長老教会宣教医としてクララ夫人とともに来日し、神奈川成仏寺に3年仮寓したあと1862(文久2)年12月に横浜居留地に転居され、1875(明治8)年9月までの約13年間お住まいになられました。そのヘボン博士邸跡地には、同博士の多くの功績を称え、1949(昭和24)年10月に建立された「ヘボン博士記念碑」があります。ヘボン顕彰会はその清掃奉仕を毎年主催され本年は第14回にあたります。当ゼミも中島耕二先生をはじめ8名が参加させていただきました。
同博士は、この地で無料医療奉仕と医学生教育、聖書翻訳、日本最初の本格的和英・英和辞典『和英語林集成』の刊行、その辞書に使用した「ヘボン式ローマ字」 の考案をされました。クララ夫人も成仏寺時代に始めていた英学塾「ヘボン塾」を1863(文久3)年の秋口にこの地で再開されました。後に日銀総裁・総理大臣になった高橋是清や初代英国大使・外務大臣になった林董など、多数の男女生徒が学びました。
私たちゼミ生は、ヘボン塾が現在の明治学院に発展したことなどに思いを巡らしながら、プレート磨き、除草、パンジーの花の苗植え付けなどに勤めました。参加者21名全員は、ヘボン顕彰会会長の阿部志郎先生からの感謝の言葉を拝聴のうえ、讃美歌(1874年「教の歌」11番 奥野昌綱・H.ルーミス編「エス あいす」)を合唱し、ヘボン博士ご夫妻への感謝を胸に散会しました。(世話人:海瀬春雄)
写真:清掃後の「ヘボン博士記念碑」

写真:清掃後の「ヘボン博士記念碑」

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」三菱開東閣フィールド・ワークの実施

当ゼミ設立4年目の2015年度は、新たにゼミ生1名が加わり、学院創設に貢献した一人、フルベッキ博士について学んでいます。テキストとして高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』(新教出版社)を使用し、ゼミ生で輪読後、中島先生の解説、質疑応答などを通して、これからの母校のあるべき姿を皆で考える力を養っています。
今回は、日本の資本主義の発展と共に事業拡大に成功し、旧三菱財閥を築いた岩崎家ゆかりの「三菱開東閣」(以下、「開東閣」)のフィールド・ワークについて報告させていただきます。「開東閣」は岩崎家のもと別邸で、港区高輪と品川区北品川にまたがる八ツ山台地にあります。このあたりはかつて徳川家康公の鷹狩りや接待用の御殿があったことから、御殿山とも呼ばれています。
私たち10名(中島先生およびゼミ生9名)は6月1日(月)11:00に品川駅高輪口に集合、その足で一路「開東閣」を目指しました。好天に恵まれ汗ばみながら15分程で到着、「関係者以外立ち入り禁止」の立て札を横目に重厚な正門を入り、まず左手にある馬小屋跡の立派な赤煉瓦棟を見学しました。その後、マネージャーの出迎えを受け壮麗な本館に足を踏み入れ、一旦ロビーに手荷物を置いて、邸内の広芝、藤棚、日本庭園、釣月庵、バラ園、松柏壇などの散策を行い、本館に戻り瀟洒な個室で昼食を楽しみました。食後マネージャーの案内で、本館内(2階建て、建築延面積970坪)を見学しました。
その中で学んだことは下記のとおりです。(写真下に続く)

三菱2代目当主岩崎彌之助(創始者・岩崎彌太郎の弟)は、維新後伊藤博文の邸宅地となっていたこの地16,500坪を購入し、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計によって洋館の建築に着手、4年余の歳月をかけて明治41(1908)年に荘重な高輪別邸を完成させました。別邸は彌之助の長男の4代目当主岩崎小彌太が数年間住まいとしましたが、その後賓客の接待、関東大震災以降は三菱社内親睦の場としても利用されました。「開東閣」の名は、昭和13(1938)年に小彌太がこの土地建物を三菱社に譲った時に命名されたとのことです。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年5月に空襲を受け、石造りの外壁を残しただけで屋根および内部はほとんど焼け落ちてしまいました。戦後約10年間GHQに接収され、返還後は三菱地所の所有となり、昭和36(1961)年に国道改修工事のために敷地の一部を割譲、現在の敷地は11,200坪とのことです(まだ広い!)。昭和38年に三菱系各社の迎賓施設として利用するため、各社の協力のもと復旧工事に着手し外観を復元、その後も内部改装や免震工事を行い維持管理に努め、今日に至っている由です。
当日この由緒ある本館と広大な敷地の利用者は、関係者を除き私たちだけで、正に贅沢で貴重な体験でありました。なお、予習時にヘボン塾の優等生、林董(はやしただす)の孫の林忠雄が、岩崎小彌太の養子になっていることを先生から教えて戴きましたが、当日その歴史の重さを合わせ感じながら体験できたことは喜びであり、感謝しつつその余韻に長く浸りたく帰り道にコーヒーショップに皆で立ち寄りました。(世話人:海瀬春雄)

中島耕二ゼミ 「ヘボンの手紙を読もう会」 の2年間の活動報告(その1)

中島耕二ゼミ 「ヘボンの手紙を読もう会」 は、設立後2年が経過します。中島先生から貴重な英知を授けていただいた、その活動内容を下記のとおり報告いたしますので、どうぞご覧ください。

1.ゼミ設立経緯・目的
本学教養教育センター客員教授の中島耕二先生のご厚意により、卒業生でヘボン塾校友講座受講済みのOB・OGからなる当有志の会のうち、希望者によって2012年4月14日に開講されました。
理想を胸に学院創立を果たしたヘボン博士の思いを学び、「ヘボンの子供」としてこれからの母校のあるべき姿を皆で考えることを目的としています。従って、 各自は「ヘボン ・ノート」を作成し、これに基づき家庭で、コミュニティーで、あるいは同窓の会で、ヘボン博士に関するレクチャーができるレベルを目指しています。

2.ゼミの概要
(1)講義の実施
講義は原則として、第2・第4土曜日の13時から17時まで白金校舎で行われ、2年間で34回に及びました。
テキストは、岡部一興編 『ヘボン在日書簡全集』 (教文館)と高谷道男編訳『ヘボンの手紙』増補版 (有隣堂)を使用し、2年間かけて輪読を完了しました。
前者は、ヘボン博士およびクララ夫人が日本に33年間在住中にアメリカ長老教会海外伝道局に書き送ったものと、帰国後に明治学院や横浜指路教会に送ったものなど全部で235通が納められ、所謂公式な書簡集です。
一方、後者は、同博士が来日前のニューヨーク在住中および滞日中に、弟のスレーター・ヘッブバーン牧師宛に書いたプライベートな手紙をまとめたもので、両書から博士とクララ夫人の高潔な人柄がひしひしと伝わって参ります。
輪読の時間は、学院に学ぶ機会を与えられた我々にとって、同博士の熱い思いに応えていないのではないかと自問する時間でもありました。
なお、先生の優しく暖かく、且つゼミ生のレベルを考慮したご指導に感謝しつつ通学できる喜びを感じています。

中島耕二ゼミ 「ヘボンの手紙を読もう会」 の2年間の活動報告(その2)

2.ゼミの概要
(2)フィールド・ワークの実施
ヘボン博士や明治学院に関連したゆかりの人々が登場する「大磯町」、「旧古河庭園と染井霊園」、「旧築地居留地」およびヘボン展開催中の「横浜開港資料館」など4か所を訪問し、先生の熱心なご説明により 「へボンとその時代」を追体験することができました。
(3)各種研究会への参加
先生の紹介により 「キリスト教史学会大会」、「横浜プロテスタント史研究会」、「外国人居留地研究会全国大会」などに参加の機会を得て、知的な世界を広げることができました。
(4)小テストの実施
学習効果を図るために数回小テストが実施され、久し振りに緊張感が高まりました。
(5)人名索引抽出作業の実施
上記使用テキストの人名索引の充実化を図るため、現在抽出作業を実施している最中です。その成果を出版社に贈呈できるように頑張っています。

3.ゼミ生
常時出席者は10名(男性7名、女性3名)で、卒業年は1961年~1978年と幅があり、また専攻学科も英文学科、経済学科、商学科、社会学科など様々です。
メンバーは社会経験も豊かで、講義などでは味わいのあるコメントが飛び交います。
なお、4月からは若手卒業生の復帰と現役女子学生の入会が予定されていますので、老壮若年のコラボレーションが今から楽しみです。
4.新年度のカリキュラムと開講時間
4月からのテキストは、高谷道男編訳 『S.R.ブラウン書簡集』 (日本基督教団出版局)を使用し、輪読していきます。
ただし、ヘボン書簡と対照しながら読み解いて行くため 『ヘボン在日書簡全集』 を用意のうえ出席することになります。
開講日程は、前年度と同様に原則として第2・第4土曜日と変わりませんが、時間は12時から16時までに変更となります。
なお、本学院の学祖たちや建学の精神を学び直したいという希望のある方は、どうぞお声をかけてください。

(世話人:1969年商学科卒業・海瀬春雄)

旧古河庭園と染井霊園フィールド・ワークの実施

本学卒業生で校友講座受講済みのOB・OGからなる当有志の会のメンバーのうち、希望者で始められた中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」は、昨年4月 14日開講から1年が経過しました。中島客員教授のご指導のもと、16回の講義、3回のフィールド・ワークの体験を通して、ゼミ生12名は貴重な英知を授 けていただきました。

今回は年度の締めとして、3月23日(土)に先生の熱心なご説明により10名が学んだ「旧古河庭園と染井霊園フィールド・ワーク」について報告をさせていただきます。

『旧古河庭園』は、ヘボン塾第1期生の林 董に「予が生涯最第一の知己」と言わしめた陸奥宗光の旧別邸であり、そして、明治学院で学んだ中島久万吉なども同地とゆかりがあることを知りました。

次に『染井霊園』に移動しました。同地は、旧播磨国林田藩建部家下屋敷跡地で、1874(明治7)年に東京府の管理として、神仏一般の共葬墓地となり、 1935(昭和10)年に名称が『染井霊園』に変更され現在に至っています。墓碑の数は、5,500基と言われています。今回は、そのうちの明治学院ゆか りの人々(13基)を訪ねました。

・デビット・タムソン夫妻・次女マミー(アメリカ長老教会宣教師、講師、理事)
・メアリー・パーク(アメリカ長老教会女性宣教師)
・ケイト・ヤングマン(アメリカ長老教会女姓宣教師)
・アンナ・H・キダー(アメリカ・バプテスト教会女姓宣教師)
・ジョージ・E・ウッドハル(アメリカ長老教会宣教師)
・田村直臣(牧師・同窓生・教授)
・巌本善治(理事・教育者)
・若松賤子(児童文学者・ヘボン塾生・フェリス女学校教師)
・松平定敬(桑名藩第4代藩主、S・R・ブラウン教え子)
・松平定教(桑名藩第5代藩主、修文館・ブラウン塾生)
・下岡蓮杖(写真家、新栄教会員)
・杉亨二(法学博士、我国統計学の祖、フルベッキ教え子)
・樺山資紀(海軍大将、初代台湾総督、内務・文部大臣)

墓前で先生の資料に基づく説明により、これら先人達の築かれた明治学院の歴史の重さを知り、私たちは感謝しつつ何をなすべきかを自問し、明日への動機付けをいただきました。

フィールド・ワーク終了後、明学OBの親友が近くで開いている「レストラン キャラ」(北区西ヶ原1-54-8)で、先生を囲みながら、おいしい洋食を味わいました。当地は染井吉野の発祥の地であり、当日は桜が満開であったことも 重なり爽やかに体験できたことなどを振り返りつつ、新年度も受講できる喜びを噛みしめながら散会しました。

(世話人:1969年商学科卒・海瀬春雄 記)

大磯町フィールドワーク歴史研究の補足説明と一部訂正

掲載内容に2点の誤りがありました。
ここに訂正と補足説明をさせていただきます。

・①島崎藤村が大磯に移り住んだ年
(誤)明治16年
(正)昭和16年
・②
(誤)山形有朋
(正)山県有朋

7月24日掲載の上記写真は旧林董(はやし ただす)邸前(現在は翠渓荘)。
下記写真は島崎藤村邸の中庭。
林董は終生、「私はヘボン塾の出身」と経歴に記して感謝していた。
また兄の松本順は佐藤泰然の次男で、大磯町の恩人となる。
昭和4年に偉大な功績を後世に伝えようと、町民有志によって照ヶ崎海岸に松本順謝恩碑が建立された。

旧林董(はやしただす)の紹介文(ウィキペディア百科事典)
董の孫・忠雄は三菱財閥の4代目総帥・岩崎小弥太の養嗣子となった。
忠雄の妻・淑子は旭硝子の創業者・岩崎俊弥の次女として生まれ、伯父・小弥太の養女となった。
忠雄が小弥太の婿養子となったことにより、林家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係となる。
また、董の娘・菊は福澤諭吉の次男・捨次郎に嫁ぐ。

明学関係者の一人、中島 信行(なかじま のぶゆき)氏は、日本の政治家。男爵。
通称は作太郎。最初の妻は陸奥宗光の妹中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。
坂本龍馬の海援隊で活躍した。
龍馬の死後は陸援隊に参加する。
維新後は新政府に出仕し、外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学。
その後は神奈川県令や元老院議官をつとめた。
自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となる。
第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から立候補して当選。
第1回帝国議会に於いて初代衆議院議長に選出されて就任。
その後は明治26年(1893年)にイタリア駐在特命全権公使、同27年(1894年)には貴族院議員に勅選。
明治29年(1896年)6月、維新の功により男爵を授けられる。
明治32年(1899年)、療養中の神奈川県大磯別邸にて死去。享年54。

神奈川県大磯町フィールドワーク歴史研究の報告

当会メンバー9名にて7月18日大磯町フィールドワーク研究を実施。
今回の企画とガイド役の海瀬春雄氏と中島教授とともに明治学院関係者の旧邸宅と明治時代に活躍した偉人邸宅跡などを含む40箇所を訪問しました。その時の写真2枚を掲載します。

旧林董(はやしただす)邸は明治28年に林董が作り居住した別荘である。佐藤泰然(順天堂大学創始者)の5男でありヘボン塾で学んだ後、英国留学、明治4 年~6年に岩倉使節団に随行。香川県・兵庫県知事を務め、駐英大使として日英同盟締結に活躍、外務大臣・逓信大臣などを務めた伯爵。
英国ドーバー海峡のプライトン臨時保養所、米国ロスのロングビーチの保養所を見て、大磯別荘地実現の原動力となる。

兄の松本順は長崎で西洋医学を学び、初代軍医総監となった。
大磯に日本で最初の海水浴場を開き、伊藤博文に働きかけ、大磯駅を明治20年に開設して、この地を有名にした恩人である。

島崎藤村邸は明治16年1月、左義長(大磯1月の祭り)を見に来て温暖な大磯の地が気に入り、2月より約2年半住む。
遺稿となる「東方の門」をここで執筆中、18年8月22日、71歳で逝去。
そのお墓は近くの地福寺に静子夫人とともにある。
昭和50年、大磯町の名誉町民となり、昭和56年に藤村邸が大磯町に寄付され平成8年秋より無料で一般公開、現在に至る。
明学関係では、初代衆議院議長の中島信行氏のお墓が大運寺にある。

明治とゆかりのある地、大磯町には旧伊藤博文邸・山形有朋邸跡・旧陸奥宗光・大隈重信邸・新島襄の終焉地(明治23年1月)、西園寺公望邸跡などもある。
大正に移り、原敬邸跡、昭和に移り、井上準之助邸などがある。
また日本の財閥系の旧岩崎邸と澤田美喜記念館・旧住友邸・旧三井養之助邸・旧安田邸・旧徳川邸がある。
現代では、旧吉田茂邸とともに、作家の石川達三邸・村上春樹邸などもある。